美しい文章は、泣きそうになる
この記事に入る前に…
久々に、泣きたくなる文章に出会った。
“泣きたくなる”という感情は、その文章の中に、かつての自分を見つけるような感覚で、その時の言葉にできなかった思いをカタチにしてくれたと感じるから生れるのだと思う。
という書き出しで始まる、グレーの羊の形而上学さんのエッセイ。
心を乱されないように、傷つかないように。
静寂こそが、平和である。
それは私も、常々感じて生きてきた事で、
なぜ、ただそこにいて、淡々と仕事をして帰るという、それだけの事が難しいのか。
全くもって、その通りで、
無害であろうにも、なぜ巻き込まれ、傷つけられるのか。
そう、思っていた時期があった。
私は、ずっと前に、その人間関係から逃げてしまったから、
今はもう、その痛みを小説を読むように眺めるしかできないけれど。
だから、昔の自分を見つけたようで、思わず立ち止まってしまった。
エッセイの中盤、この人間関係のノイズを物理の演習問題の文言で表す場面が出てくる。
摩擦の無い美しい理想と、摩擦だらけの現実。
その表現が美しくて、滑稽で、悲しかった。
当時、私は怖くてたまらない世界のことを大人びた友人に話したことがあった。
その時、言われた言葉を強烈に覚えている。
「君は自分のルールに縛られて、ちょっとの言葉で翻弄されているじゃない。所詮、他人事なんだから、もっと、楽に生きればいいのに」
この言葉の意味が分からなくて、そのまま記憶に留めていた。
エッセイの終盤、その答えを見つけた。
ノイズの正体を、知ること。
そうする事で、怖さを手放せること。
“本当に大切なもの”を大事にできること。
ああ、そうだったのかと
今更ながら、腑に落ちた。
耳を塞いで自分の世界だけで生きていたこと。
ノイズを受け入れるけれど、それは自分とは違うもので、もっと楽に、分けて考えて良いということ。
ノイズの中にも、知らなかった自分の光があるのだとすれば、
それを見ないのは、勿体無いことなのかもしれないな。
そんなことを考えていた。
エッセイの結びの文章に、背中を押される。
10年越しに、あの時の答えをもらった気がした。
こちらのエッセイは、原文で全文を読んでほしい。
どの言葉に心を惹かれるかは、きっと読む人によってちがうから。
素敵な文章をありがとうございます。