芸術を鑑賞する【基礎教養部】
先月は穂村弘『短歌のガチャポン』をチームで読んで、記事を書いた。
今月は、セオドア・グレイシック『音楽の哲学入門』を読んだ別チームと合流し、これら二冊の本を題材にして記事にしてみようという新たな試みである。短歌と音楽の共通点は、どちらも芸術であるということだろう。
そこで本記事では、芸術を鑑賞するとはどういうことなのかを考えていきたい。上で紹介した二冊の書評を下に貼っておく。
芸術鑑賞がテーマなので、まずは芸術ってそもそも何なのかというところから入っていこう。芸術はこういうものであるというイメージは頭の中にあるが、定義しようとすると難しい。Wikipediaには以下のように載っている。
表現者(人間)がいるというのは当然のように見えて、実は見落としがちなのではないかとも思う。そして、表現者の存在を意識することが、鑑賞にも大きく影響を与えるのではないだろうか。
鑑賞とは、読んだり聞いたり見たりすることに「味わう」というニュアンスを付け加えたものと言っていいだろう。味わうとは味覚のメタファーである。芸術の味とは何か。その芸術で使われている技術や表現、また表現者がそれを表現した意図や、その意図の背景にある歴史などが「味」にあたるだろう。
人に出す料理を作ろうと思ったとき、テキトーに食材を選んで調味料を好き勝手に入れるようなことはしない。こういう料理を作るときはこのような味付けをする、など、ある程度決まったレシピが存在しているはずである。美味いものを作りたいというのは前提としてよいだろう。何を美味いと感じるのかは地域によって、あるいは時代によって異なる。だからそれに伴ってレシピも変わっていくわけだが、ある地域・時代を固定したときに、作り方に守るべきルールというか、作法のようなものが存在するとは言っていいと思う。
鑑賞者側はレシピを知らなくてもそれらの料理を食べることはできるし、美味しいとかそうではないとか判断を下すこともできる。しかしそれだけではなく、例えば使われている食材や調味料の知識、そういう作り方になっている理由など、レシピの背景を知っている状態で、それらに思いを巡らせながら食事するというシチュエーションも考えられる。その方が美味いものがより美味くなる、というのはありうる。知識がある場合と無い場合。知識があるとそれに引っ張られて、知識がない場合に得られたはずの純粋な楽しみが体験できなくなると言われることもある。
知識があったほうがいい、無くてもいい(無い方がいい)。どちらの言うことも分かる。しかし決着がつきそうにない。そもそも対立が成立していないのかもしれない。こう考えてみる。知識を有した状態での鑑賞と、知識がない状態で見たり聞いたりするのは、芸術に対する接し方としてそもそも別レイヤーに存在するのだ、と。
「知識を有した状態での鑑賞が望ましい」と言うから、反論が起きてしまうのである。鑑賞とは味わうことであり、芸術の味とはそれが表現された歴史的背景や意図、技術など、言葉で説明可能な知識であるとするならば、鑑賞には知識があったほうが望ましい、ではなくて、鑑賞に知識は必要であると言うべきだ。そしてこれは知識を有していない状態で芸術に触れることを否定しているわけではない。初めて絵を見るとき、初めて音楽を聞くとき、何も知らない状態でそれに接したときにも、何か感じることがあるはずだ。ただ、それは「鑑賞」ではない。ただそれだけのことである。
(芸術作品を前にしたときに、その作品に対する知識を全く持ち合わせていない、完全ゼロ知識であることはあり得るか?と想像してみたが、普通にあるのではないかと思う。例えば現代アートとか。目にしたときに、色がキャンバスにおかれているな、としか思わないこともある。)
鑑賞に知識がいるか問題は、実は言葉の定義の問題だった。確かにそうかもしれないが、いまいちスッキリしない感じもある。また、知識が、知識を有していない状態で作品に抱く感想に対してどのような影響を及ぼすかについても考えられていない。しかし芸術について言葉でいくら語ろうとも、そこから溢れてしまう部分はどうしても感じ取ってしまうはずだし、そういう「一次的な」感想は知識のある無しにかかわらず保存されるのではないかとも思う。また、表現者の存在を生成AIと比較して論じたかったがそれもできていない。表現者(表現物)と鑑賞者の相互作用についても触れていない。
最近は自分自身俳句も始めて、実感することがある。生活が忙しくて心の余裕がなくなると、楽しめなくなるということである。芸術を心のオアシスにすることは難しい。
まとまらないが、今回はとりあえずこれで終わり。続編を書くかもしれない。