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趣味の読書005_柔らかい個人主義の誕生(山崎正和)

もともとは1980年代出版の、ほぼ古典化しているが、2016年時点で16刷まで出版されている名著の、増補新版である。著者は美学芸術がメインの評論家兼劇作家で、もう亡くなっている。40年前の名著とされていたのだが、今まで読んだことがなかった。結論的には、今の時代で読んで良かった、と思った。最初の「おんりい・いえすたでい 70's」だけだけど。

全体の構成で言うと、1983年の時点で1970年代を振り返った「おんりい・いえすたでい 70's」(このタイトル自体に猛烈に時代を感じる)を第一章とし、第二章が「「顔の見える大衆社会」の予兆」、「消費社会の「自我」形成」を第三章として、まとめて「柔らかい個人主義の誕生」、そして増補分として「個人主義再考」という2つのエッセイ?が追加されている。

まず言っておくと、後ろに行くほどつまらない。美芸の先生が美芸を語るならいいけど、ウェーバー(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)やボードリヤール(消費社会の神話と構造)を引いて消費社会や現代社会論を語るのは、正直無理筋じゃないかなぁ。ボードリヤールがつまらないのはまあ同意するけど、ウェーバーの理解は、いくら何でも誤読レベルだった。ていうか、(どう定義するかによるけど)産業社会?の誕生を16世紀とするのは、いくらなんでも無理筋では?フランス革命前、紡績機の発明前、名誉革命前、アメリカ開拓前ですよ。
「個人主義の誕生」のほうにも、現代から見ればごく基本的な生態学や未開社会に関する理解がないと思われる記述(動物や未開社会の社会性や文化を「種属の生存を優先させる社会」という定義)があり、「利己的な遺伝子」もすでに出版されてたのに、ちょっとレベルが低すぎる議論だなぁ、と思った。

ただ、前半の「おんりい・いえすたでい 70's」のほうは、かなり面白かった。今から1970年代を遡ることは、直接にはデータでしか不可能だし、今からアネクドータルに振り返るにしても、所詮2020年代から振り返った、50年前の事象でしかない。この章は1983年に著されたものだが、つい数年前としての1970年代を、その時代の人が振り返ったものを改めて確認するという機会は、ありそうでないし、特にネット普及以前では、こうした丁度いい書籍を読みでもしない限り出来ない経験だ。実際、そういう本は色々あるんだろうけど、少なくとも、個人的には新鮮な経験だった。
普段あまりしないが、特に「おんりい・いえすたでい 70's」から、せっかくなので特に興味深かったところを引用しておこう。

我々が問題にする日本の一九七〇年代は、それを生きた同時代人にとって、決してその意味がわかりやすい時代ではなかったといえる。…
ひとつには、これは、それに先立つ六〇年代があまりに印象鮮明な時代であり、誰の目にも変化が強烈に目立つ時代であった、ということの結果だともいえる。六〇年代は、「黄金の六〇年」とも呼ばれ「反乱の六〇年」とも呼ばれ、その当時から多彩な命名に飾られた十年であったが、事実、それは国民にとってなすべき仕事の明快にわかっている時代であった。

山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」p12

一九七〇年代は時代を飾る華々しい標語もなく、時代全体の記念碑となるような祝祭もなく終止する十年となった。…のちに、人々はこのつかみにくさそれ自体を時代の特色として受けとり、おりから出版された本の表題を借りて、「不確実性の時代」という言葉を流行させることになった。だが、ここでも、不確実性とは価値の相対化とか、偶然性の支配といった積極的な変化を意味するのではなく、漠然と、不透明で不安な時代の気分を示すに過ぎないものであった。…
やがて、日本は石油危機とドル・ショックというふたつの事件に襲われるが、皮肉なことに、この大衝撃はむしろ、七〇年代という時代の性格をますます消極的なものに見せることになった。国民は、これによって六〇年代の繁栄を脅かされたと感じ、もっぱらそれを防衛するという、後ろ向きの姿勢で生き始めたからである。…いずれにせよ、記憶にあたいするのは、この70年代が日本の近代史百年の中で、おそらくただひとつ、攻撃的な時代目標を何一つ持たない十年だったということである。

山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」p13~15

初っ端から、1970年代がどういう時代だったか、端的に示すわかりやすい記載である。今から振り返ると、昭和の時代は(ろくでもない部分も多分にあるが)、経済成長等の観点では総じて「良かった時代」という受け止めなのではないか。ただ、すでに1980年(昭和55年)の時点で、成長は1960年代で完結し、1970年は「後ろ向き」の時代だったと評されている。
実際過去分析したが、「1年前と比較した生活水準変化」で、「向上している」という回答は、まさに1973~1974年のオイルショックのタイミングで大幅に減少し、それ以降地を這っている(図1)。この辺の時代感覚を端的に表現したのが、「後ろ向き」で「攻撃的な時代目標を何一つ持たない」ということなのだろう。

図1:1年前と比較した生活水準変化の推移
(出所:国民生活調査、日銀、生活定点)

逆に言えば、「失われた30年」とされる、平成以降の閉塞感的なものは、すでに1970年代には準備されていた時代感覚であり、案外バブル崩壊がなくても、同様に語られていたのかもしれない。主に経済的な情勢ではあるが、この点は上記以降でも触れられている。

それにしても、日本はこの近代化を短期間に急激な形でなしとげた結果、国家の目的志向的な性格もとくに顕著に現れ、その目的に参与して生きているという国民の意識も、とりわけて強められることになった。その意味で、日本は世界の近代化の実験室の役割を演じたのであるが、その趨勢が劇的な頂点を見せたのが、国民総生産が自由世界第二位に達した六〇年代であった。…
だが、注意深く見れば、日本という国家があれほど劇的に行動し、ひとつの目的を激しく追求することを許されたのは、明らかに日本がまだ小さな国だったからにすぎない。…その後(引用者注:一九六〇年代以降)も、ある程度の経済成長をすることは許されるにしても、それが劇的に飛躍することは、もはや国際社会の感情から見ても不可能なことであった。現実には、七〇年代に入って、あの石油危機が日本の成長にブレーキをかけたわけだが、じつはそれがなくとも、六〇年代のあれほどの成長率は別の理由で抑制された、と考えるのが現実的であろう。

山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」p18~20

リチャード・クーの「「追われる国」の経済学」を、若干ナショナリスティックにした感じの分析だが、1960年代(高度経済成長期)を羨ましく思うような感覚が、少なくとも1980年代初頭にはすでにあったのだろう、と推察される。

こうした70年代の振り返りの上で、続いて職場と家庭が人生に占める割合が減少している、という分析がなされる。ここはいちいち引用しないが、
・週休2日制の導入(1970年は、71.4%の企業が週休1日だったが、1980年には23.7%まで減少)
・祝日法の改正(祝日が日曜になる場合は、翌月曜日が休みになる)
で、就業時間が減少しているという意味で、職場での労働時間が減少し(まあ、残業時間はどうだったのかわからないが、、、)
・世帯構成員の減少(核家族化)
により家事の時間も減少している。あるデータでは、「主婦が自由に使えると考えている時間数は、六〇年代には一日に平均三時間四五分だったのに対して、七〇年代にはそれが四時間五三分に伸び、八〇年代の今日では、七時間二九分にも達している」とのことである。どこまで額面通りに受け取って良いものか悩ましいデータだが、洗濯機や掃除機の家電が広まった時代でもあり、主婦の自由時間が増えたという事象自体は肯えるだろう。
というか、額面通りに受け取ってしまうと、2020年代でもほぼ間違いなく主婦が自由に使えると考えている時間は「七時間二九分にも達している」と思われるのだが、どうなんだろうか。以下のデータだと、「自分のために使える自由時間」は、3時間以上ですらほぼいないんだが。ていうか、専業主婦よりフルタイムの方が自由時間が少ないってどういうことだろ?通勤時間??

さらに、高齢化の進展も理由に挙げたうえで、1970年代は「消費の社会的価値が着実に高まり始めた時代」とし、「個人がより個別的な嗜好にしたがって商品を選別する時代であり、…物質的な商品よりも、もっと直接的な個人的サーヴィスを要求する時代の始まり」としている。ここで言及される「個人的サーヴィス」は、ホスピタリティ産業や文化芸能等を指しており、モノ消費からコト消費という、2010年代の流行語を完全に先取りしているのは間違いないだろう(さすがに本書の定義のほうがやや緩いが)。というか、コト消費というのが、2010年代において全く新現象でもなんでもないということが分かって興味深い。

そして、こうした消費の個人化にともない、社会にも新たな変容がもたらされると分析している。

今や、多くのひとびとが自分を「誰かであるひと(サムボディ―)」として主張し、それがまた現実に応えられる場所を備えた社会が生まれつつある、といえる。…ひとびとは「誰かであるひと(サムボディ―)」として生きるために、広い社会のもっと多元的な場所を求め始める、ということであろう。…結局、今後の社会には様々な形の相互サーヴィス、あるいは、サーヴィスの交換のシステムが開発されねばなるまい。

山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」p54~55

そしてこれらの変化は、個人間のリアルなやり取りを基盤とすることから、家庭と国家の間の、中規模のコミュニティを必要とし、その意味で地域経済の興隆が必要とされるし、個人が「様々な形の相互サーヴィス」を交換するため、個々人が表現者になる必要があるという意味で、脱工業化社会の新たな産業となる…という感じの主張がなされる。

全体的に相当長い引用になってしまったが、工業化と経済成長の急減速と「大きな物語の終焉」的な視点を踏まえた、1970年代の振り返りは、2020年においても「これって今でも完全に通用するな」と思わせる部分が非常に多かった。少なくとも、1970年代の「後ろ向き」さは、経済環境等の悪化を、「ゆとりのなさ」や少子化の背景等として挙げる2020年代の(多分それ以前からの)「分析」と通じる感じがする(少なくとも「ゆとりのなさ」は、個々人の経済環境とは必ずしも一致しないことは、データ分析の032で分析したし、少子化の背景としても若干疑わしいことは同じく080で分析した)。
うまい引用が難しかったので触れていないが、増補文庫版の福嶋亮大氏の解説でも触れられている、新たな消費社会における「不幸の個別性」の指摘は、特に現代において示唆的だと思う。
その意味で、ここ50年間、日本人の時代精神は大した変化がないのかもしれない。少なくとも、現代に至る時代精神の、その萌芽は間違いなく1970年代に辿れる(そして1960年代には辿れない)のだろう。

正直言って、これらの1970年代分析の背景を、歴史分析の中に位置づけたりするこれ以降の試み自体は、あまり面白くない。別に的はずれだとは全く思わないが、単にごく浅い分析である。
また、若干示された消費社会の未来像は、残念ながら作者が思うほど明るい方向には行かなかった。ネット社会、そしてSNSが、本来地域社会等が提供すべき価値、個人が発揮すべき価値を概ね代替してしまったのだろう。このへんも、福嶋亮大氏の解説でも触れられているので、それも参考になる。
というわけで、本書で読むべきは冒頭の「おんりい・いえすたでい 70's」と解説くらいなのだが、とはいえ十分読む価値はあるだろう、いまだからこそ。

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