【読書感想文】川のある街
朝日新聞出版 江國香織 著
望子は小学生三年で、母と暮らしている。時々、離婚した父こんちゃんとお出かけをして、おばちゃん(母の叔母)と留守番をして、りっちゃん(母の妹)が遊びに来て、そして友達の美津喜ちゃんとゴボウという遊びや、後ろ歩きで帰ったりする。
小学生のころの、なんでもないようなことなのに、とってもプライベートな気がかりを、江國さんは描くのだ。大人の変な言い回しが気に入って使いたくなるけれど「あきれてものも言えない」をタイミングが合ってるかどうか知らずに言ってみたり。膝から下の母の足元なら好きにしがみつける気がしたり。シーナさんの深緑のコートをやたら覚えていたり。夜のシャボン玉は冷たい感じがしたり。
そんな、子供独特の視点を鮮明に描き、読んでいるうちに「そうだった、そうだったよね」と、姉たちとクスクス笑い合っていたころを思い出す。
子どものころは楽しかった。
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今日は、私の44回目の誕生日で、家族の予定も何もない日曜だった。
ここのところ、予定がずっと入っていたから、今日は朝から、好きなだけ本を読んでいたい、と家族にお願いしていた。ふさわしい本を手に。
天気は曇り時々雨。
まったりと、読書に都合のいい日和だった。
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カラスは、カラスで。
たとえばそれが、ハシボソガラス(英語ではキャリオン・クロウ)で、十一歳だとかは、考えたことなどなかった。カラスはカラスで、たとえばそれが雄で、食事の仕方だとか、食べ物の隠し場所だとかに個体差があるだなんて、思ったことなかった。
けれど、カラスはよく見ているのだ。
人間の生活を。あの、よく見るカラスはいつも同じ個体で、たとえばそれが猫とかであれば、
「あの子、またいるわ」
などと、愛着すら湧くことだろうのに。
妊婦は一括りに妊婦、というわけでもなく。
おのおのに、抱える症状や段階には個人差がとてもある。
カラス、妊婦、老人、子ども。
一括りにするじゃなく、個々にフォーカスする江國さんの視点が、とても、らしくて好きだ。
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雨の音がしたり、やんだり。薄曇りで湿気の多い低気圧に、ウトウトと眠くなる。
観念して少しだけ、と昼寝をする。
こんな日の昼寝は、コトンと堕ちるように。
読書に浸かる脳は、身体を忘れ、現実がうすれていくけれど、そんな曖昧が心地よくて。
ぼんやりと、寝起きにまた、物語を開く。
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大学教授をしていた芙美子は、白い目で見られることのないヨーロッパで、同性の恋人と暮らしていた。その恋人も病で失い、親しい人々も逝ってしまい、認知症のすすむ芙美子を心配した姪っ子が訪ねてくる。
同性婚が認められたこの国で、希子と暮らした日々を、ふとした瞬間に思い出しては感傷に浸る間、姪っ子の目には、あるいは他の人の目には、心ここに在らずで会話についていけないぼんやりとした老人としかうつらない。
芙美子にとっての散歩は、徘徊で。
「ちょっと思い出せなかっただけ」なのは、記憶混濁なのだ。
昔のことは、大切なことは、覚えていて、ともすればそこへ、容易にひもづいていく。
今日が何曜日かよりも、色濃く。
深く昼寝をしたからかもしれない。
姪っ子の澪が、言うのだ。
「颯爽としていて、お洒落で、昔は大学の先生で。やさしくて、おもしろくて、自由で。」
と、叔母である芙美子のことを。
さぁて、私は。
44年、生きてきた私と、これから。
「誕生日おめでとー!」
と、姉たちや娘や姪っ子や甥っ子がメッセージをくれた。
私のことを、彼らはどう表現するのだろう。
芙美子や、希子のように、
「柊ちゃんのしそうなことだよね」
なんて言われるような、
そんな私を選んでいきたい。