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紹介「称徳天皇と雑物」(こうく)|『彰往テレスコープmuseum vol.02 机上のユートピア』収録

称徳天皇と弓削道鏡…。ちょっと歴史をかじった人なら、この単語だけで脳内ピンク化は避けられないだろう。「歴史をかじった人」は「そんなの嘘だい。史実じゃないやい」なんて言うかもしれないが、ま、そんなことはどうでもよい。 『彰往テレスコープmuseum vol.02 机上のユートピア』収録作の「称徳天皇と雑物」は、そんな称徳天皇×弓削道鏡の説話の成立から、江戸時代に至るまでの変形・バリエーションその他を丹念に追いかけた怪作だ。奇想天外、支離滅裂、そして何より奇技淫巧。パラレル奈良朝ワールドを追った寄稿者こうく君による書き下ろし解説。

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称徳天皇と弓削道鏡

今回の「称徳天皇と雑物」では、古代から近世にかけての称徳天皇と道鏡の説話について紹介した。

称徳天皇と道鏡という権力者の怪しい関係は、事実を問わずして古くから多くの人々の興味を惹き、さまざまな説話が生み出された。弓削道鏡は奈良時代、孝謙天皇(後の称徳天皇)を看病して以降、宮廷内でまたたく間に権勢を振るった僧侶だ。女帝であった孝謙・称徳天皇の信頼を一瞬にして勝ち取ったために、「何かいかがわしいパワーを使ったのではないか」というというのが多くの説話に共通する内容である。こうしたハナシは江戸時代の「膝が3つある」とかの川柳とともに、現代でもよくしられている。

原因は仏罰だった!?

実はこうした説話の起源は案外古く、奈良時代の『日本霊異記』にもその萌芽をみることができるのである。ただし、はじめのうちは「道鏡=巨根」「称徳天皇=広陰」という要素は欠けていた。

現在、淫乱な称徳天皇と巨根の道鏡の説話は、言うなれば、週刊誌の報道のような、「ウラ話」、もしくは「暴露話」として受け入れられていることが多い。しかし中世では、このような「暴露話」的な見方だけでなく、仏教との関わりのなかでこの説話が受容されてきた。

道鏡が巨根になり、称徳天皇が広陰を持つようになった由来譚が生まれたのは中世であったが、説話のなかで僧・道鏡は本尊に自慰をし、称徳天皇はある経典を焼き捨てたといい、これらによって性器が肥大化したそうだ。本来仏教徒である、2人がなぜ仏教に対して貶めともとれるような行動を取ったと語られるようになったのか。寄稿した文を是非確認してほしい。

古代から語られたこの話は、時代がくだるにつれ、一層それは事実とは異なる、荒唐無稽な話へと発展していき、近世では幅広く文芸作品の題材となっていく。

 今回の「称徳天皇と雑物」では、このような女帝と僧との噂話を、ここが史実と異なるという指摘ではなく、時代ごとにいかにして語られてきたのかに着目した。説話・文芸作品を数多く引用した内容になっているが、それぞれ荒唐無稽で魅力的なものばかりである。史料本文を見ていくだけでも、間違いなく楽しめるだろう。

さて今回はせっかくなので「称徳天皇と雑物」で一部引用した、江戸時代の『新撰古今枕大全』の内容について、もう少し詳しい現代語訳をここで紹介する。

奇技淫巧の『新撰古今枕大全』

 皇極天皇が密かに勅を出された。勅によると、「総じて男は罪浅く、気に掛けずに女の肌の良し悪しや女性器の広い狭いの噂をするが、女はどんな男に会っても、そういったことを隠すのが専らで、とうとう女同士でそのようなことを話すことなく、男には色道の上手下手があって、女の心に適わないことが多い。
 第一、女の方から誘っていることに気づくのを見分ける男は少ない。女の方から早く一緒に寝たいなんて言えないので、うまく言葉でまくしたて、目くばせをして心を通わし、顔が火照るか、または耳ばかりが赤くなり、鼻息を荒くして男の近くにすり寄り、男性器に手を伸ばし、そろそろと上下に動かす。
 自ら女性器を男性器に近づけると、男は慌てて、まだ性交に及ばず、しめやかに話などをして、お腹や背中をさすって、そろそろと挿入を始め、初手はあさあさと突きかけ、段々と奥へ突っ込み、たとえ自分の方から女性器をあげて、奥に痒い所があり、男性器を当てて調子よく腰を縦横に動かし、恥ずかしさも忘れて声をあげ、様々にもがいて欲しがっても、それを気にせず、いつものように、そろりそろりと、やりかけてくる男は本当に良く、命もあげたい。下手な男は、女は奥深くまで挿入すれば、よがるだろうよと心得て、性交を始め、強引に自分の男性器を奥へおしこみ、首に手をまわし、急に腰を振り出すので、既に男は絶頂してしまい、残念なことと思っても、どうも女の方からもっと長くやりたい、私ももっと気持ちよくなりたいとは言えない。
(中略)男は女を満足させたという顔をするが、女の口からは、たとえ天下を治める私であっても、まだイってないから気持ちよくしてなんて言えない。(中略)男の一物は決して大きさによらない。媚薬をつけたにもかかわらず、ただ前戯から女の子頃を動かそうとし女性器が濡れてくるのを待って、静かにそろそろと抜き差しをし、さあ今だというときに、押しかけて急に男が腰を振ってきたら、たとえ一物は細く小さくても大層絶頂に至る。
しかし男はよく女であれば、巨根を好むと言っている為に、弓削の道鏡を召したが、道鏡はただ男性器が大きいばかりで、大の下手である。その上、床にはいると、女性器をいじってくるが、うるさいものである。しばらく話をして心が高ぶってきたら、女性器に指を入れるのではなく、そこに唾をつけてそろそろと挿入をすることは、本当に言いようがなく気持ちがいいが、ここまでやってくれる男はほとんどいない(後略)」という。

 冒頭から驚かされる。なんと道鏡と関係を持ったのが称徳天皇ではなく、それより百年以上も昔の皇極天皇にすり替わっている。これが故意のものか、作者の誤りなのかはわからないが、江戸時代の文学作品では時折、称徳天皇が皇極天皇に置き換えられているものがみえる。

明和6年に出版された『当世穴さがし』では動き出した張形(男性器を象ったもので、女性が自慰に使う)が、張形の歴史を語るシーンがあるが、そこでは「広玉天皇に由解の道教が工夫し、天の逆鉾お形を写し取った由緒正しいものである」と言う。「広玉天皇」も「由解の道教」も原文のままである。

こうした文字の改変は、いずれも“創作である”ということの強調なのかもしれない。少し深く考えてみれば、「広玉天皇」とは「広陰」(称徳天皇は広陰として語られてきた。このことについては寄稿したものに詳しいので、みんなも読もう!)、と「玉女」(美人の言い方)の2つの単語を縮めたものとも考えられる。

今回触れることができなかったが、称徳天皇と道鏡は、全国の民間伝承にも多く登場する。こういった民間伝承は、またの機会に紹介してみたい。

道鏡 それは腕でないかと みことのり

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