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「本人らしさ」を大切にする介護 No4~「即時充足的介護」
11.即時充足的 vs 手段的
(1) 現在が未来の犠牲になる
介護保険制度の大前提である「必要・Needs-目的(自立)-手段(介護)」という体制・構造が「本人らしさ」を尊重しようとする介護の阻害要因となりかねないのは、現在の生が未来の自立という目的のために手段化され貶められるからです。
この事態についてもう少し解像度を上げておく必要があると思います。
大澤真幸(社会学者)さんはコンサマトリー(consummatory:即自充足的)という概念を紹介していますが、このコンサマトリーという概念は「必要・Needs-目的(自立)-手段(介護)」構造を解析するために有効な概念だと思います。
コンサマトリーとはそれ自体で充足的な価値を持つという意味で、その反対語はインストゥルメンタル(instrumental)つまり、手段的、道具的ということです。
大澤真幸さんはコンサマトリー/インストゥルメンタルという対概念を用いて「目的-手段」の現在と未来との関係性、つまり時制論的関係性を次のように指摘しています。
経済成長をともなう資本主義においては、「現在」は常に、未来に想定された目的にとっての手段として―したがって意味そのものの源泉である未来の目的との関連で常に二次的・派生的なこととして―意味づけられる。つまり、現在はインストゥルメンタルな過程である。ところで、未来の目的には永遠に到達しないとすれば、どうなるのか。時間内の生は、すべてインストゥルメンタルだということになる。
以上の「目的-手段」の時制論から導き出された「現在」を介護に当て嵌めると次のようになるでしょう。
介護においての「現在」は常に、未来に想定された自立という目的にとっての手段として、二次的・派生的なこととして意味づけられてしまうのです。
介護の現在は常にインストゥルメンタルな過程となるのです。ところで、目的=自立への到達が困難でなかなか達成できない場合は、当事者(お年寄り)の老後の日常は全て手段ということになりかねません。
※ 医療と介護の根本的な違いも、このコンサマトリー/インストゥルメンタルで説明できます。私は医療はインストゥルメンタルで、介護はコンサマトリーでなければならないと思います。
(2)「現在」の手段化による疎外
介護保険体制下の介護は「必要(Needs)-目的(自立)-手段(介護計画)」体制として存在しており、当事者(お年寄り)の現在を自立への手段、道具と化す構造となっているのです。また、このことは個々人の主観的なものではなく、社会的、構造的なものだということを忘れてはなりません。
さらに、大澤真幸さんは「現在」のインストゥルメンタル化(手段化)は疎外をもたらすものだと指摘しています。
「現在」は、それ自体としての充実した意味をもってはいない。現在の意味は常に未来へと疎外されている。
現代社会(資本主義社会)では、「未来」の目的、つまり儲けのために「現在」の生を手段化し疎外しますが、介護においても「必要-目的-手段」思想・構造によって、お年寄りの「現在」が自立を目的とする「未来」へと疎外されてしまうのです。
※ 資本はG(貨幣)-W(商品)‐G’(貨幣の増分⊿Gを含む回収分)という資本の一般公式に示されるように、未来の際限のない自己増殖を目的とします。介護の究極目的である自立も未来に向けた絶え間ない自立化運動(自立し続ける)だと言えます。この未来に向けた絶え間ない自立化運動を支える経営手法がPDCAサイクル(永続的な改善運動)でしょう。また、労働力商品として、人間の自立は資本に必要不可欠ですので介護が担う人間の自立化運動は資本増殖を支える仕組みだと言えます。
12.即時充足的な経験とは「楽しい」経験
(1)コンサマトリー=「楽しい」「おちつく」
コンサマトリー(即時充足的)とは具体的にはどのような事態をいうのでしょうか。見田宗介(社会学者)さんはコンサマトリーは心躍るものだとしています。
手段としての価値があるわけではない。かといって「目的」でもない。それはただ現在において、直接に「心が躍る」もの
私は、当事者(お年寄り)がコンサマトリー(即自充足的)な現在を生きられるようにする介護を目指すべきではないかと思います。
そして「本人らしさ」を大切にする介護こそがコンサマトリーなものだと思います。
コンサマトリーについては、次のnoteをご参照ください。
「未来より今でしょ!高齢者介護の時制-介護施設の課題Ⅳ-3」
コンサマトリー(即時充足的)の内実・内容は何かということを考えていく必要があると思います。私は、コンサマトリーの内実は、心躍る、ワクワクする「楽しい」と思える経験ではないかと思います。
そして、この「楽しい」「楽しみ」という経験はどのようなものなのかを詳らかにしていくことが大切だと思います。
(2)「楽しむ」ための条件は目的からの自由
國分功一郎さんは次のように、「楽しむ」ということは、目的から自由であることが条件だとしています。
・・・「美味しい」と思い、食事を楽しんでいる時、その楽しさは栄養摂取という目的とは無関係です。栄養摂取ができているから楽しいわけではない。そもそも、栄養摂取という目的のために食事をしていたら、食事を楽しめるでしょうか。
ワインの味がもたらす享受の快は、ただ単においしいということの享受であって、目的からも手段からも独立しているし、独立して考えられるし、独立して考えられねばならない。
(3)「楽しい」に宿る「私らしさ」
さらに、國分功一郎さんは、この目的から独立している「美味しい」とか「楽しい」ということの中に「本人らしさ」、固有性・個性が宿っていると次のように指摘しています。
何か快適であるかが人によって異なるものだとすれば、快適さについての判断とは人間が互いに違っていることの一つの根拠である。快適なものについての判断は、その意味で、それぞれの人に固有の好み、もっと言えば、個性のようなものと結びついている。ならば、誰かにとって快適であるものを大切にすることは、その人の好み、その人の個性、その人の人となりを大切にすることであろう。
「楽しい」という事態は、何かが「快」「快適」と感じられている状態だと思います。そして、この「楽しい」という事態の中に「本人らしさ」「自分らしさ」個性が宿っているということでしょう。
また、「楽しい」の「楽」という漢字には、リラックスする、のんびりする、ゆったりするというニュアンスも含まれていると思います。ということは、どのような状況でリラックスできる、のんびりできる、ゆったりできるかということにも「本人らしさ」が表れるのだと思います。
『「本人らしさ」を大切にする介護』はシリーズです。