「業務日課」至上主義の背景と疎外 介護施設の課題Ⅱ-2
1.なぜ「業務日課」至上主義がはびこるのか
そもそも、何故、「業務日課」至上主義がはびこるのでしょうか。人員不足などの体制の問題も大きいと思いますが、ここでは人間的な要因、社会的、心理的な要因について考えてみます。
(1)ヒラメ・キョロメの過剰同調
宮台真司 (社会学者)さんは日本人の過剰な同調性について鋭い論評を展開していますが、この観点も「業務日課」至上主義がはびこる理由を考える上で参考になると思います。
同氏はヒラメ(思考停止で上位者に伺いを立てる者)・キョロメ(思考停止で同調圧力に屈する者)という日本人の劣等性について次のように説明しています。
確かに、介護施設でもヒラメ(上司にへつらう者)やキョロメ(周囲に迎合する者)は多いでしょう。介護職員にとって介護施設は職場であり、職場組織の一員という意識が強いのです。
当然、この職場組織には当事者(入居者)は含まれません。入居者を「われわれ」の一員だと思っている職員はいないでしょう。入居者は「やつら」なのです。
ヒラメ・キョロメの介護職員にとって、へつらい、同調しなければならないのは上司・同僚であって入居者ではないのです。
思考停止したヒラメ・キョロメが介護施設の主軸となり「業務日課」至主義に浸っている介護施設では介護福祉士養成校や実務者研修、初任者研修で習った「お年寄りの人権を守り、お年寄りに寄り添った介護」等々の価値の貫徹(実施・遂行)より、ヒラメ・キョロメ的適応(上と横関係への過剰な同調)が優位となり、「業務日課」至上主義が徹底されていくのです。まさしく、宮台真司さんがいう「価値的貫徹より学習的適応の優位」が貫徹しているのです。
(2)シーシュポスの神話体験
入居者が「トイレ行きたい」と訴えるのでトイレに連れて行くのですが・・・出ない。
せっかく訴えに応答したのに何にもならない。これを何度も繰返すうちに、介護職員は徒労感に苛まれ馬鹿らしくなって、当事者を無視するようになってしまいます。
意味のないことを何度も繰返す。まるで、巨大な岩を山頂まで上げようとしても、あと少しでのところで岩はその重みで底まで転がり落ちてしまう。これが永遠に繰り返されるというシーシュポスの神話のようです。
このような体験から介護職員はこのような入居者を無視し、応答したくなくなります。
しかし、訴えに応答するとは、訴えを文言とおりに理解してそれに応えることではないでしょう。その文脈、背景をも含めて理解し応答することです。
例えば、先の「トイレに行きたい」は空虚放置[1]された者の痛ましいまでの訴えかもしれません。入居者はトイレに連れて行ってほしいのではなくて、空虚放置から逃れたいだけかもしれないのです。空虚放置されている自分にかまってほしいのです。この空虚放置への対応が必要なのにトイレ誘導に終始しても根本的な応答にはならないでしょう。
または、頻繁な「トイレに行きたい」は精神的なストレスや不安が原因の心因性の頻尿かもしれません。頻繁に繰返される訴えは何らかの不安などによる神経症の症状のようなものなのでしょう。
しっかりと、訴えの原因や背景を考慮した応答を職員の知恵を出し合って検討する必要がありそうです。
これに類した出来事が介護現場では多いのですが、思考停止してしまっている職員は適切に応答できません。入居者の訴えの上っ面だけで捉える薄っぺらな人間観がこのような事態の背景にあるのかもしれません。
いずれにしても、入居者への対応に徒労感を覚えた職員は当然、入居者とはあまり関係のない間接的な業務に勤しむようになります。
始めは当事者の訴えに応答しようとしていた職員も、シーシュポスの神話に出てくるような苦行に挫折し「業務日課」至上主義の信者になって職員同士で楽しくやった方が良いと思うようになるのかもしれません。
(3)凡庸な悪
「業務日課」至上主義に感染した職員は無責任です。この場合の責任とは「response応答する」を語源とするresponsibilityです。当事者(お年寄り)の訴えに応答すべき者が応答しないのは無責任です。
何故、当事者の訴えに応答しないのでしょうか。もちろん、忙し過ぎるということもあるでしょう。または、介護施設には複数の職員がいるので自分が応答しなくても別の誰かが応答すればよいと思っているのかもしれません。介護施設では入居者の訴えへの応答義務が薄められているのです。
また、そもそも入居者が応答すべき人として、みなされていないという怖れもあります。端的に言ってしまえば、入居者はもはや「応答すべき人」とは思われていない可能性があるのです。
「人を人とは思わない」ここまで来てしまえば、もう「ヤバイ」「病的」としかいえませんが、それでは、このような職員は極悪人なのかといえばそうではありません。
ハンナ・アーレント (ドイツ出身の哲学者)は『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』(1963年)において、ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップであるアドルフ・アイヒマン は極悪非道な人間ではなく、ごくごく平凡な人間であるとしています。
このアーレントの著作を基に山口周 (著作家)さんは次のように指摘しています。
入居者の訴えを無視し、入居者を人としてみなさない無責任な者たちは、特に酷い悪人なのではありません。
「業務日課」至上主義を無批判に受け容れている、ごくごく 凡庸な人間なのでしょう。所与 の「業務日課」至上主義の中でいかに「うまくやるか」だけに思考も行動も集中させる、という生き方をしているだけなのです。
そして、多くの介護施設では、このような批判的思考を停止した者たちがマジョリティ・多数派なのです。
「業務日課」至上主義は介護施設のオペレーション・システム、運営体制であり、イデオロギーなのです。それをマジョリティである批判的思考を停止した凡庸な職員たちが維持・強化しているのです。
2.「業務日課」至上主義による疎外
「業務日課」至上主義に罹患した介護職員は 疎外されているといえます。
「何かが違う。」
「こんなはずじゃなかった。」
「介護がしたくて介護施設に就職したけど充実感がない。」
「介護施設なんて、しょせんこんなものさ。」
「どうせ何を言っても変わらない。」
などと疎外感に苛まれている介護職員も多いでしょう。
① 人間関係からの疎外
彼女ら・彼らは介護をするために介護施設に就職したのに、実際は業務に忙殺され、入居者との相互行為・相互コミュニケーションとしての介護に携わることができないため、入居者との人間関係から疎外されてしまいます。
② 人間的労働からの疎外
また、彼らは、考えたり工夫したりすることができる人間的な介護労働からも疎外されています。彼らは決められた日課・週課とおり、マニュアルとおりに何も考えることなく働かされているからです。
決められた時間に決められた作業を行う工場のような介護施設、工場制介護では介護職員は労働者としての尊厳が失われ、単なる工場の機械の一部に過ぎません。
まるで、チャップリンの『モダン・タイム』(Modern Times) の世界です。
③ 二重の疎外が「業務日課」至上主義を強化する
介護職員は「業務日課」至上主義のために自己疎外情態となっており、入居者との相互交流からもたらされる喜びからも遠ざけられ疎外され、自らの判断で構想し実行する労働からも疎外されてしまっています。
入居者との人間関係からの疎外、人間的労働からの疎外という二重の疎外により内面的な空虚を抱えるようになった介護職員たちは、同じく「業務日課」至上主義に染まった仲間たちに同化し、群れ、ますます「業務日課」至上主義に傾倒していくのです。
そして、この「業務日課」至上主義の仲間(信者)の一員であることのみに喜びを感じ、業務の邪魔になる入居者を蔑み、まともな介護をしようとする者をますます虐め排斥することに快感を持つようになる者もおります。
「業務日課」至上主義は職員たちに疎外をもたらし、この疎外が職員たちをますます「業務日課」至上主義に駆り立てていくのです。
④ 深刻な三重疎外
介護施設には、当事者(入居者)との相互交流には関心、興味がなく、職員同士の共依存的で気楽な関係だけで満足している介護職員も多いようですが、入居者との人間関係から疎外され、労働からも疎外されている職員は「なにか違うな」「なんか変だ」などの違和感や生きづらさを感じている者もおります。
「業務日課」至上主義が蔓延している施設で、「業務日課」至上主義を信奉しない介護職員は、入居者の訴えに応答しようとし、孤軍奮闘することになります。
たった一人の孤軍奮闘では入居者たちへの応答は困難となり、入居者の訴えを無視せざるを得なくなる場面が多くなってしまいます。このことが、まともな介護職員を苦しめるのです。もちろん、苦しいからと言って、入居者を無視して職員同士の楽し気な会話の輪にはいることもできません。
まともな職員は入居者との人間関係からの疎外、人間的労働からの疎外の他に、職場の人間関係からの疎外も加わり、三重の疎外に苦しむことになってしまうのです。
この深刻な三重の疎外に耐えられなくなり、その施設を辞めてしまう者も多いのです。
以下のnoteも併せてご笑覧願います。
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