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「本人らしさ」を大切にする介護 No2~「私らしくなりたくて私らしくなれない私」
4.「本人らしさ」vs「世人 das Man」
「本人らしさ」とは、かけがえのない、他者と取替のきかない固有の存在、つまり、実存という概念を基盤にしていると先に指摘しましたが、池田喬(哲学者)さんは、人は日常的には実存(固有の存在)として生き切れず「世人」(独 das Man、英語the one)として生きていると指摘しています。
この「世人」という概念は、ハイデガー(Martin Heidegger:ドイツの哲学者、1889年~1976年)の造語・概念ですが、池田喬さんは、「世人」という概念を次のように説明しています。
「実存とは、存在するなかで自分自身の存在が大切であり問題なのであり、その存在は私のものだという性格をもっていた。ところが、日常性において実存はこの自らの性格を損なっている。」
「現存在(人間)はそれぞれ自分のものであり、私、あなた、彼といった人称的区別がその存在理由の一部をなしている。その意味で私たちはそれぞれ固有である。それにもかかわらず、日常性の主体は世人であり、自分自身でない。」
「あなたも、私も、彼も、それぞれかけがえのない固有な存在、実存だけれど、普段は付和雷同したりして、自分らし生きているわけではないよね。」ということらしいです。
介護の世界でも同じだと思います。当事者(障がい高齢者)は一人ひとりかけがえのない固有の存在(実存)であり、「本人らしさ」を大切にしなければと、誰もが思っているでしょう。または当事者たちも「私らしさ」を保ったまま生きていきたいと思っているでしょう。
しかし、現実はどうでしょうか。私たちは日常的に「本人らしさ」、「私らしさ」を大切にしているでしょうか。そもそも、「私らしさ」が何かわからない人も多いのではないでしょうか。
5.介護のシステム化・マニュアル化は「世人」に支えられている
人は自分らしく生きたいと思いつつも、自分らしく生きることは難しく、普段は「世人」として生きてしまっているようです。
池田喬さんは、「世人」を次のようにも説明しています。
『世人とは、「ひとは~と言っている」「ひとは~する」という場合の不定代名詞「ひと(man)」を中性名詞化したものであり、日常言語はこのように誰でもない人称なき主体(ないし非‐主体)を出現させている。』
池田喬さんは、上記の文中の「ひとは~と言っている」「ひとは~する」とした場合の「~」には『「雨に濡れると風邪をひく」とか「最近の若者は内向きだ」など、世間で一般的に言われるようなこと』ばかり入り、このようなことは「具体的に誰が言っているのか、と問われれば、よくわからなくなる。むしろ、誰もが言っていると答えたくなるところであろう。」と指摘しています。
ようするに、たいした根拠もなく、言っている、やっているのだと池田喬さんは言います。
『「ひとは~と言っている/~と言われている」という表現のポイントは、私たちは、誰がどういう根拠をもってそう言っているかを問うことなく「~」を既成事実として語り真似るということである。』
日常的な会話や行為は「ひとはこんなことを言っているから」私も同じようなことを言ってみたり「ひとはこんなことをしたりするから」私も同じようなことをしてみたりしているのです。
何か話す時に、いちいち熟考していたら会話がスムーズに進みませんし、いちいち意志決定して行為しようとしたら、面倒くさくて、とても生活できません。とりあえず、ひとが言いそうなことを言い、ひとがやりそうなことをやっているのが日常なのです。
これらの会話や行為の中に立ち現れている「ひと」が「世人」です。そして、この「ひと」=「世人」は匿名的、非‐主体だと、池田喬さんは次のように指摘しています。
「この用法に現れる「ひと」は具体的な人ではなく、誰でもあり誰でもないという匿名的な主体―あるいは、非‐主体と呼ぶべきか―を奇妙にも指示しているのである。」
介護の世界の住人(要介護者及び介護者)も日常的には取敢えず、当たり障りのないよう「世人」として生きているのではないでしょうか。
たとえ、個別ケアとか、「本人らしさを大切にしよう」とか標語的には理解していたとしても、介護施設の日常は入居者にとっては、日課が定められた共同生活であり、職員にとっては、業務日課至上主義に染まった職場であり、そこでの言動は決まりきった「世人」のものと言えるのではないでしょうか。
なにより、日本政府が推奨するシステム化・マニュアル化された介護は「世人」ベースの介護であることを証明していると思われます。システムとかマニュアルは原理的に「普遍性」を有したものであって、「個別」「固有性」には対応しないものです。ですから、AIなどを無邪気に導入し、介護のシステム化・マニュアル化を進めれば進めるほど「本人らしさ」の尊重から遠のいて行くように思われるのです。
このように「世人」として日常を生きている当事者(お年寄り)たち、職員たちですから「本人らしさ」を尊重するといっても、誰にでも通用する一般的な配慮しかできないことが多いのだろうと思います。もちろん、この一般的な配慮もとても大切なのですが。
「本人らしさ」を大切にする介護を困難にしてしまう要因の一つは「世人」であることは間違いないと思います。
業務日課事至上主義については、以下のnoteをご参照ください。
6.私らしくなりたいから私らしくなれない
「世人」とならないために、やはり、自己の固有性、「本人らしさ」、「私らしさ」という価値を徹底して追い求めていく必要があると思われるでしょうが、自己の固有性を求めれば求めるほど、「世人」となってしまうというジレンマ(dilemma)があると池田喬さんは指摘しています。
「私たちはそれぞれ固有であるからこそ自己喪失するのである。」
「私らしさ」を大切にし、他者と比較して、自身の固有性を発揮しようとすれば、するほど自己喪失してしまう。この辺の事情を池田喬さんは次のように説明しています。
「日常性におけるその相互性とは「隔たりを気遣う」ことであり、この気遣いは自分と他者を比較することを含んでいる。重要なのは、何であれ二つ以上のものを比較するには、その二つのもの以外に、比較のための基準や尺度が必要ということだ。」
「私もあなたもお互いに比較し自分の個性を認識しようとするが、そのとき、揃って同じ尺度ないし物差しで自分も他者も測るようになる。つまり、私たちはそれぞれ固有であるからこそ、その違いや隔たりを気にするようになるが、まさにその違いの認識のために同じような物の見方をするようになるのだ。」
つまり。自分が固有であり、個性的でありたい「私らしく生きたい」と願うということは、他者と比べることになり、比べるためには、基準、尺度、標準が必要となるのです。
例えば、自分の優しさで自分の優しさを測ることはできず、自分以外の誰かを尺度にしなければならないのです。
「他者と自分の違いを認識するには、自分自身をその生き方の尺度にすることはできない、という点が重要だ。」
誰でもない、「世人」という共用の尺度を用いて始めて、自分と他者を比較できるのです。
このように、「本人らしさ」、「私らしさ」、を大切にしようとすればするほど、比較する尺度、基準、標準を共有しなければならず、よって、同じような物の見方をしてしまい「世人」として生きていくことになるのです。
私らしくありたくて、私らしくあろうとして、その結果、私らしくなれない。これは一人ひとり固有な存在である人間の宿命なのかもしれません。
ですから、介護の世界で大切にされている「本人らしさ」も実態は個別性、固有性ではなく、「世人」的、一般的、普遍的で誰にでも共通した尺度、価値観に引きずられている怖れがあるということに気づく必要があると思います。
「世人」については『介護世界の世人(das Man)— 虐待論Ⅵ』をご参照ください。
『「本人らしさ」を大切にする介護』はシリーズとなっています。