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精神病理学の人間理解とDSM ~爺のお勉強note~

 年とともに少々ポンコツになってきている今だからこそ、勉強って大切だと思います。年老いても承認欲求は強いので、お勉強noteを厚かましくも公開させて頂きます。


 松本卓也(精神医学者)さんの 『症例でわかる精神病理学』(2018年 誠信書房)は、さまざまな症例ごとに①記述精神病理学、②現象学的精神病理学、③力動精神医学・精神分析による解説が記載されていて、とても分かり易く勉強になります。
 なにより、さまざま人間理解の方法の特徴をよく理解させてくれます。
 私は特に、DSM の操作的診断は 介護分野にも馴染みやすいもののように思われますし、これが現在の主流だと思うのですが、ある種の危険性も感じました。

1.精神病理学の3つの立場

  介護は介護する人と介護される人の相互行為です。介護者が被介護者をきちんと理解することは介護の基本です。
 高齢者介護においては、被介護者(要介護者)を理解すると言った場合、認知症やうつや妄想、幻覚等々精神病理学の知見を必要とすることも多いと思われます。
 一度、精神病理学の基本的人間理解の方法については整理しておくことが大切だと思います。

 松本卓也(精神医学者、現代思想研究者、京都大学大学院人間・環境学研究科・総合人間学部准教授)さんは、精神病理学を次のように説明しています。

 精神病理学とは、精神障害もつ患者さんの心の状態や働きを、
(1)すぐさま「わかって」しまうことを避けるために一定の方法論を設定し、
(2)何をどんなふうに「わかる」ことができるのかを厳しく限定し、
(3)「わかりえない」ものがあるということを尊重しながらも「わかろうとする」営みから生まれた学問である、と。

引用:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p1

 この松本卓也さんのお話はとても参考になりました。

 介護現場でも、ある人を、すぐさま「わかって」しまう、「わかったつもり」になることもあるかと思いますが、このような安易な人間理解は確かに避けるべきだと思います。
 また、介護では当事者(入居者等)をアセスメントすることになりますが、そのアセスメントで何がどんなふうに「わかる」のかについてしっかりと理解し、その理解が限定的であるということを自覚することも大切だと思います。
 誰かを理解すると言っても、その理解が全てではありません。
 わかる範囲を明確にすることが必要なのでしょう。 
 そして、やはりそれでも「わかりえない」ものがあるということを尊重する姿勢は介護でも大切なことだと思うのです。
 人を理解する方法論について鋭敏であるべきだと思います。

 松本卓也さんは精神病理学には次の三つの立場があるとしています。

① 記述精神病理学(descriptive psychopathology)
② 現象学的精神病理学(phenomenological psychopathology)
③ 力動精神医学(dynamic psychiatry)ないし精神分析(Psychoanalyse)

(参照:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p3)

① 記述精神病理学(descriptive psychopathology)

 まず、①記述精神病理学ですが、松本卓也さんは、次のように説明しています。

「ヤスパースに始まる記述精神病理学は、記述心理学に基づき、患者さんに生じている心的体験を的確に記述し、命名し、分類するものであり、その際には了解という方法が用いられます。」

引用:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p6

  記述、命名、分類する。
 科学的方法ですね。そして、記述的精神病理学の課題について松本卓也さんは次のように指摘しています。

  記述精神病理学の大きな問題は、あらかじめ主体と客体をはっきりと分離して考えていることにあります。ヤスパースの了解という方法では、患者さんが話し、医師がそれを聞き取って頭の中に思い描くとされていました。これでは、患者さんは客体(対象)であって、医師はその客体を観察する主体であるということになり、この関係は固定されたものであると考えられます。
 
 記述精神病理学のように、あらかじめ主体と客体をはっきり分離することは、精神障害において生じている根本的な現象を見逃してしまう危険性があることになります。

参照:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p7)
 

 このような、主客を分離して人間を理解するというのは、介護におけるアセスメントでも同じではないでしょうか。
 観察し、アセスメント・評価する職員(主体)と観察、評価される客体(利用者)というように、介護におけるアセスメントも主客分離を前提としています。

② 現象学的精神病理学(phenomenological psychopathology)

  現象学的精神病理学は次に見るように、記述精神病理学のこの主客分離の手前の主体と客体、観察する主体と観察される客体との間、間主観性を問うものだということです。

「しかし、ある種の精神障碍者と面接しているときに体験されるのは、主体と客体がまだはっきりとは分かれていないような場所、いわば主体と客体のあいだ Zwischen のような場所における異常の感覚なのです。」
「私たちは、世界に「ふつう」にんで(住んで)いますが、ある種の精神障害者にとっては、世界とのあいだに「ふつう」には棲まうことが障害されるということがありうるわけです。そのようなあいだ(間主観性)の領域における異常、つまり、それぞれの患者さんの世界への棲まい方を検討することが現象学的精神病理学の主要な課題なります。」

参照:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p7,8

 現象学的精神病理学は主体と客体のあいだ」に注目するところが特徴のようです。

 この現象学については池田喬(哲学者)さんの次の定義が端的で分かり易いと思います。

現象学とは、一人称観点から私たちの経験を探求する哲学・・・

引用:池田喬 2024 『ハイデガーと現代現象学』勁草書房pⅲ 強調は祐川

 この一人称的観点から経験するということは次のようなことだと池田喬さんは説明しています。

「・・・一人称観点から世界を経験するというのはどういう経験の仕方なのか、・・・」
「経験は私にとってという性格(for-me-ness)を持っており。私という観点からのまとまりをもっている。したがって、経験に根ざした知識はすべて、「私にとって」という方向性において獲得される。・・・「私にとってという性格」は「私のものであること(mineness)」ともしばしば言い換えられる・・・」

引用:池田喬2024 「ハイデガーと現代現象学」勁草書房 p9,10

 一人称観点からの経験は、自分がどういう存在であるかを問い、自己を了解し、実存しているという事態が密接に絡まっているのです。

③ 力動精神医学(dynamic psychiatry)ないし精神分析(Psychoanalyse)

 力動精神医学(精神分析)について松本さんは次のように説明しています。

 ジークムント・フロイト(1856-1939)によって体系化された精神分析を精神医学に応用した立場であると言えます。

 フロイト精神分析は、症状の背後にある無意識的な機制(=メカニズム)を重視しました。彼が無意識 des Unbewusste と呼ぶ心の領域においては、ある観念や欲動 Trieb が、他の観念や欲動とぶつかりあっていると考えられており、一方の力が他方の力を抑え込もうとしたときにさまざまな病理的な現象が出てくると考えられます。力と力の間の関係に注目するこのような立場のもとでは、その力の大小によって、その関係が刻一刻と変化することになります。すると、診察室の中の患者さんの状態も刻一刻と変化すると考えられます。力動精神医学では、このよう診察室(ないし病棟)の中での変化に特に注目するのです。
「変化」に注目するこのような考え方は、記述精神病理学現象学的精神病理学にはあまりなかったものです。

 力動精神医学が扱うのは、ダイナミックに動き、刻一刻とその状態を変える対象です。一回の面接の中で何度も状態が変わることさえあります。このような立場は、当然のことながら、臨機応変な対応が求められる精神療法/心理療法 psychotherapyにとって必要不可欠なものです。 

参照:松本卓也 2018 『症例でわかる精神病理学』誠信書房 p8,9

 力動精神医学は患者さんの「変化」に注目するところに特徴があるようです。

 総じて、介護の世界では、記述的方法論、科学的方法論を用いて人間を理解しているように思います。
 
現象学的方法論や精神分析的な方法論はあまり知られていないか、評価されていないないか、興味を持たれていないのではないでしょうか。

2.操作的診断の問題

(1)精神医学の光と闇

 松本卓也さんは、次のように精神医学と精神分析(力動精神医学)の違いを次のように指摘しています。

 現代精神医学は兆候と診断を結びつける知だが、精神分析(ラカン派)は症状のなかに現れる知と主体の関係に注目する。

引用:松本卓也2015「人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」青土社 p25

  精神医学は、身体医学と同じように、患者が示す症状を客観的に(客体として)捉え、その症状のいくつかの集合から「統合失調症」や「不安障害」といった診断を下す。反対に、精神分析は主体という観点から診断を行う。

引用:松本卓也2015「人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」青土社 p27

 ようするに、精神医学(記述的精神病理学)は客観化された兆候のみから診断を行うが、精神分析は精神医学が客観化した、その兆候の構造(例えば主体の分裂や、知に対する主体のあり方を踏まえて診断するというのです。

 私は、精神医学モデルの人間理解の方法、つまり、患者の主体を無視する方法論は、介護の場合ですと、あまり相応しくないのではないかと思っています。 

(2)診断の標準化・アルゴリズム化~DSMの問題点~

 近代精神医学の中心は、かつて(18世紀から20世紀初頭)はフランスとドイツでした。それが、第二次世界大戦以降、精神医学の中心はアメリカに移ったと言われています。

 そのアメリカで、精神医学の診断を標準化・均質化することを目的として開発され世界的に普及したのが、アメリカ精神医学会の「精神障害の診断・統計マニュアル Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorder」、略して「DSM」です。

(参考:松本卓也2018「享楽社会論 現代ラカン派の展開」人文書院 p123~)

 1980年に刊行されたDSM-Ⅲは、精神分析による病因論を徹底的に排除するために、特定の症状がいくつあるのかをチェックリストに従って調べることで診断を可能とする「操作的診断」という考え方に基づき「精神科診断面接マニュル」等の構造化面接の手法が開発されました。

 そして、この構造化面接では、質問項目がDSMの診断基準に沿った項目によって構成され、それぞれの質問の順序がフローチャートになっており、それに従って問診を行えば、面接者の技能に関わらず必ず正確な診断にたどり着くことができるのです。

 このように、精神症状を身体症状と同じ水準で扱う構造化面接は、患者という主体を無視する面接であり、DSM-Ⅲ以降の精神医学は、客観化された兆候(所見)以外のものを、まるで存在しないかのように扱うのです。

 そもそも、DSMの診断基準は、ある精神障害が呈する多彩な症状のうち、ごく僅かな症状しか含んでいません。しかし、DSMによって教育された医学生や医師たちは、DSMの診断項目に記載されている症状しかみようとしなくなるのです。

 精神医学の基本的態度は、「見えるものだけしか見ようとしない」というものだと松本卓也さんは断じています。

(参照・引用:松本卓也2015「人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想」青土社p26,27 及び:松本卓也2018「享楽社会論 現代ラカン派の展開」人文書院 p126)

※  「DSMは、2013年に最新の改定がなされ、第5版(通称,、DSM-5)として精神医療の中で広く用いられております。」

  患者という主体を主体として捉えず、客体・物としてしか把握しないところに現代精神医学の闇の根源があるのではないでしょうか

3 介護におけるDSM的な人間理解

 このDSMによる診断の標準化という問題は、介護におけるアセスメントについても言えると思います。

 介護分野でも、標準的なアセスメントによって、介護支援専門員、及び介護職員、生活相談員などに「見えるものだけしか見ようとしない」という習性・傾向が生じる危険性がありそうです。
 つまり、当事者(お年寄り)について、アセスメント項目しか見ようとしない、LIFEへ搭載するデータ項目しか見えないようになっていく怖れがあるのです。 

 また、先に紹介したように、DSMは診断のためのチェックリストに列挙された症状をいくつ満たすかによって計量的に診断することが可能であり、マニュアルさえ覚えれば非医師の研究者や教育・福祉関係者にも行えるものです。
 マニュアルに基づく手順を守れば診断ができるということは、精神病の診断をアルゴリズム化(algorithm:手順化)することも可能ということです。将来的には精神医学の診断はオンラインでAI(Artificial Intelligence:人工知能)が行うようになるでしょう。

 同様に、介護でも標準化された科学的・客観的アセスメントにより導き出されたアルゴリズムを用いて、AIが介護計画の作成するようになるでしょう。もはや、介護支援専門員も不要となってしまうかもしれません。 

 このように主体であるべき人間を客体化し、診断等を標準化、アルゴリズム化しようとする、この時代の潮流は「主体を隠滅するイデオロギー」に相違ありません。
 そして、このような潮流のなかで近代的な意味での主体、または、一般化されえない実存としての人間は、もはや、存在しないことにされてしまうのかもしれません。

  松本卓也さんの次の言葉は重いです。

  私たちは取り返しのつかない破滅的退廃、あるいはフーコーが予告していた「人間」の完全な終焉を眼にすることになるのかもしれない。

引用:松本卓也2018「享楽社会論 現代ラカン派の展開」人文書院 p126,138 強調は祐川

 精神医療界では時々以下のような醜聞が聞こえてきます。 

 精神科病院に勤務する看護師らが「身体拘束を止めたい」と立ちあがったのですが、日本精神科病院協会の山崎学会長は、身体拘束を全肯定する意見を改めて披露しました。
 このような人間性を欠いた精神病院のありかたも、「すぐわかる・簡単にわかる・誰でもわかる」操作的診断・DSMの影響で「限定的にしか人間は理解できないし、理解しえないものがある」という人間理解のつつましさが失われてしまった結果かもしれません。 


 このDSMの他にも、ICD10(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems 10th Revision:国際疾病分類)や、このICDの延長線上にある ICF (International Classification of Functioning, Disability and Health:国際生活機能分類)についても、DSMと同様の操作的診断だと思われます。
 よって、これら、ICD10やICFもDSMと同様、客観化された兆候(所見)以外のものを、まるで存在しないかのように扱う怖れがあると思います。
 有効なツール(tool:道具)ですが、その使い方を間違ってはいけないと思います。


  以下のお勉強noteもご笑覧願います。


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