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35年ぶりの続編『ビートルジュース ビートルジュース』の"あの頃バイブス"がイケ過ぎる。


こんなに爆イケな映画でしたっけ?と。

ワーナーブラザースさまのロゴがスクリーンいっぱいに映し出されるオープニングから、テンションぶち上がりの映画体験をしてきたのが、ティム・バートン監督の新作『ビートルジュース ビートルジュース』だ。

もはや説明も不要だろうが、本作は1988年公開『ビートルジュース』の35年ぶりとなる続編。
そして、初めてそのベールが明かされたとき、おそらく世界中のファンが歓喜したポイントは、このタイトルだろう。

ビートルジュース。
ビートルジュース。
2024 A.D. …笑


余計な副題や「2」という数字を使わず、『ビートルジュース ビートルジュース』と、その名前を2回繰り返すだけという他に類を見ない題名。
(作品をご存知の方からしたら、もうニヤニヤが止まりませんよね)

この秀逸なタイトル設定からも分かる通り、本作はその世界観を"現代版にアップデート"してしまうことなく、小田和正ばりのあの日、あの時、あの場所の『ビートルジュース』ワールドを、そのままスクリーンに蘇らせてくれたのだ。

とはいえ、わたし自身は1作目の公開時にまだ生まれていない。(小田和正もよく知らない)
したがって、いくら"あの頃"という表現を使おうとも、本当の意味でその当時の空気を感じ伝えることはできない。
しかし、80年代~90年代のポップカルチャーが大好きで、そのエッセンスを多少なりともかじらせてもらっている身として、本作は限りなく"あの頃"の追体験をさせてくれる傑作だと言いたい。

今回はそんな『ビートルジュース ビートルジュース』の"あの頃バイブス"がイケ過ぎるという、そんな話をしよう。

両手に(まじで)花。


***


本当に面白ければ人は飽きない


映画でも、音楽でも、SNSの投稿ひとつを取ってみても、最近は何かと「バズる方法」に溢れ返っている。いわゆる「How to」と呼ばれるコンテンツで、もはや"方法"ばかりが悪目立ちし、実際にそれを用いて作られた創作物はどこにあるの?と訊ねたくなってしまうほどだ。

中でも、映画や音楽の類において、前奏が長すぎると最近の人は飽きちゃう、なんてことを言われ、映画はいきなり山場となるような映像から始めないといけない、音楽は開始1秒から歌詞がないといけないという、謎ルールでひしめき合っている。

そんな中、本作『ビートルジュース ビートルジュース』は台詞がない、昔懐かしのオープニングクレジット演出から幕開けた。
ダニーエルフマンの音楽に乗せ、これといってその後に続く物語の、重要な鍵となる要素もない映像をバックに、作品を彩るスターたちの名前がゆっくりと、順に流れていくだけ。

だが、これが予想以上にわたしの心を躍らせた。
このひと昔前の"あの頃映画"を彷彿とさせるオープニングが、異様な輝きを放ち、これから始まる本編への期待値をMAXに高める効果が感じられたのだ。

生き急ぐでない。今ここでお前が慌てなくとも、心ゆくまで楽しませてやるから。まぁ安心して座ってろ。

‥‥と、まるでそんなことを言わんばかりの、そのどっしりとした作品の構えっぷりたるや。

これが御年66歳を迎えた奇才 ティム・バートンの本気かと、そう思わざるを得ない見事な幕開けを、ぜひ皆さんも劇場で体感してもらいたいものだ。

「死」を華やかなエンターテイメントに仕上げるのは、
ティム・バートンのお家芸。


さて、そんなわたしの妙なハイテンションさはこのくらいにして。
このオープニングから分かる通り、本当に面白いものならば、そう簡単に人は飽きないんだよと、わたしは思う。

先の表現では、このオープニングシーンを「重要な鍵となる要素もない映像」なんて言葉でまとめ上げてしまったが、映画の舞台となる、あの街のミニチュア模型をなめるようにして映し出される映像は、確かに台詞こそないものの見ごたえ抜群のワンカットだ。

前作を知っている人は「そう、これ!」と大興奮。前作を知らない人も、この世界がどういう構造で、どういう配置で、どういう色を持った場所なのか。それをたった数分のオープニングクレジットで完全理解させるパワーは凄まじいものである。

そして映画の幕開け早々、これだけ1人1人の役者の名前がゆっくり映し出されると、嫌でも「銀幕のスター」という、これまた"あの頃"の呼び名が浮かび上がってくるようにも感じられる。
近頃ではその呼び方もまったく古めかしいものとなってしまったが、特に本作のような映画は「役者ありき」で進むタイプの作品だと思っている。
そんな作風だからこそ、下手に時代の流れに身を任せず、どーんっとそのクラシカルな世界を貫いていればいいという、1周まわって新しい演出にも見える作品の幕開けが、一気に観客をティム・バートン世界に誘ってくれるというわけなのだ。

1作目の、あの屋根裏の、あの模型。
このワンカットから始まるなんてシャレ過ぎだろう???


***


ファンタジーは観客の想像力に委ねていい


と、ここまでわたしが本作を大絶賛しているのにはワケがある。

そう、わたしは子どもの頃からティム・バートン作品が大好きなのだ。(勿体ぶった割に薄っぺらい理由)

だがその"好き"の理由を考えてみると、これはひとつに「ファンタジー」を創り上げるための「リアル」を追求しているところにある、と言える。

ファンタジー作品を得意とする映画監督は、世界各国にたくさん存在するが、やはりその多くは摩訶不思議な映像表現であったり、見たこともない奇怪なデザインなどをウリにしている。もちろんそれはそれで凄まじい興奮を覚えるのだが‥‥
ことティム・バートン世界においては、これは一体どうやって撮影してるの!?どういう作りになってるの!?という複雑怪奇な演出が…実は、意外と、少ない。

独特な模様をあしらう衣装や家具は多く登場するが、あくまでドレスはドレスだし、椅子は椅子。観客を突き放すような理解しがたい描写というのは、ほぼゼロといっても過言ではない。
映像表現それ自体に目を向けても、使うCGはいかにもコテコテなものであるし、(本作でも遺憾なくその美しさが発揮されていたが)なんと言っても彼の十八番はストップモーション撮影、別名:コマ撮りだ。

つまり、彼が創り上げる「ファンタジー」というのは、決して観客にクエスチョンマークを突き付けるようなものでなく、言うなればクエスチョンマークを共有できる作品になっている。
どんなに現実離れした作品を描いていても、不思議と彼の作品には、そのメイキングや撮影方法が透けて分かるような「安心感」がある。
それと同時に、これはおとぎ話です、これは皆さんの想像力を持って完成する作品ですと、そんな観客の力を信じてくれているような「優しさ」をも感じられ、この「リアル」の側面をメタ的に取り込む巧さが、ティム・バートンのティム・バートンたる所以ではないかと、わたしは感じているのだ。

明らかに変なんだけど、なぜか心地よいシーンばかり。
あとここでジェナちゃんの片足を映すあたりが、本当に、もう、ね??


その上で、本作『ビートルジュース ビートルジュース』は、バートンらしさ全開の1本だと言っていいだろう。

"あの頃"の霊界の舞台はそのままそこに存在しているし、マイケル・キートン演じるビートルジュースの不思議な魅力も一切の衰えがない。
ウィノナ・ライダーの可愛らしさも、作品の枠を超えてファミリーの仲間入りを果たしたジェナ・オルテガも、サンドワームの特撮シーンも、ただ楽しいだけのミュージカルナンバーも、すべてにちょっとずつのリアルさを残すから、そこに我々観客が好きに想像をしていい余白が生まれ、その余白を込みで、この「ファンタジー」は出来上がっている。その委ねられた楽しさが、『ビートルジュース ビートルジュース』にはふんだんに盛り込まれているというわけなのだ。
そしてこれこそが、"あの頃"の面白さを体現してくれているとも思う。

思えば、わたしがまだ田舎暮らしの小学生だった頃は、昔ながらの映画体験というのが僅かながらに残っていた。映画館の座席指定がなく、売店で買ったポテチやジュースを持ち込みながら、観客同士がヒソヒソと話したりできちゃうスタイルだ。
もちろんそれが全面的に良いものとは言わない。が、"あの頃"は今よりもっと、そうして映画を咀嚼する時間が確かに存在していた。

すべてがシステマチックになった現代において、"あの頃"の余白はどんどんと縮小されていくばかりだが…その点本作は、そんな時間・空間を、映画の2時間の中で適切に設けてくれていると思う。
映画なんて身構えるものじゃない、もっと気楽に、ポップコーンでも食べながら、ひとりでも、デートでも、家族団らんの時間にでも使って、ちょっと他のことを想像しながら観てもいい。『ビートルジュース ビートルジュース』を通じて描かれるバートンの夢の世界は、その想像力を働かせられる余白を持って完成されているのかもしれないと、わたしは感じたのだ。

監督の指示聞くビートルジュースはシュール。


***


そして、"これから"へ


だが、本作がそうした"あの頃"への思いを馳せるだけの懐古厨映画かというと、もちろんそんなことはない。

現代的な配慮が満載の忖度映画になっていないという点では、"あの頃"の面白さが全開!といえるが、前作から35年の月日を経たことに大きな意味がある描写はたくさんあった。

ひとつは、なんといっても"あの頃"のウィノナ・ライダーを継ぐ、みんな大好きジェナ・オルテガの参戦だろう。

彼女は同じティム・バートン監督作のNetflixドラマ『ウェンズデー』で一気に注目の的となった、これからの映画界を背負うであろう期待の新人だ。
そのチャーミングさと、愁いを帯びた演技に世界中の映画オタクがハートを撃ち抜かれているに違いない(※個人談)が、本作『ビートルジュース ビートルジュース』でも、見事にウィノナ・ライダーからのバトンパスを受けたように思う。

これは前述のオープニングクレジットの話で記した「銀幕のスター」という表現にも通じることだが、ティム・バートンほどの有名監督ともなれば、そこに起用される俳優は、単に作品を良いものに仕上げるための役の人というだけでなく、作品それ自体を凌駕するほどの"アイコン"として役を全うすることも稀ではない。
かつてのウィノナ・ライダーやジョニー・デップ、ヘレナ・ボナム・カーターが、まさにその象徴的な役を成し遂げたスターたちといえるだろう。

しかし、このたった35年の間で時代は大きく変わり、「スター」という存在は見事に生まれにくくなった。ひとりを特別扱いするようなやり方は道徳的にNGで、SNSの普及によりタレントの希少性は薄れる一途、何より情報の多様化に伴い、大衆の関心は一極集中型から分散型へと変貌した。ここ数年は特に、何か特定のものが社会現象になるといったことや、一世を風靡するという表現すらも聞かなくなったと思うのだが、皆さんはどう思うだろう。

そんな中で、こういう役者ありきの、明らかに次のスターを生み出そうとしている作品は、どこかわくわくするものがある。
ただ"あの頃"は、そうしてスターになった者の人権がゼロに等しく、無造作に消費されてしまうという罠もあったものだが…これからの時代はきっと違う。本当の意味で「スター」が「スター」になれる日が決して遠くはないと思いたいからこそ、作り手側も惜しみなくその魅力を放出させて欲しいと、わたしは願う。少なくとも『ビートルジュース』の続編が、その役を買って出ていることは、事前のプロモーションの羽振りの良さからも間違いないと思うのだが、皆さんの評価やいかに。

にしても…
若かりし頃のウィノナはスターだし、天使だし、もう大好きだよね。(うるさい)


またもうひとつは、バートン流小粋なジョークの、35年ぶりの新作を見られたことだ。

ご存知『ビートルジュース』のシリーズは、数多くのティム・バートン映画の中でも1・2を争うコメディ作品である。

「ハチャメチャ」という言葉がぴったりな本作は、そのお茶目と皮肉のバランスが絶妙な、バートンにしか描けないジョークが最大の見どころとも言えるだろう。その新作が、続編となる『ビートルジュース ビートルジュース』でも贅沢に堪能できるというわけなのだ。
これだけ「笑い」に厳しくなった現代において、あの『ビートルジュース』を復活させるというのが、もう既に最高のジョークとも捉えられるわけだが‥‥蓋を開けてみてもそのセンスには一切の衰えがなかった。こればかりは本当にお見事、脱帽である。

とはいえ、本作のジョークに「ぬるい」と感じた観客も少なからずいたことだろう。
仮に1作目『ビートルジュース』を「爆発力」と名付けるならば、2作目『ビートルジュース ビートルジュース』は、まず間違いなく「センスの塊」でしかないと思うからだ。

つまり、続編が公開したことによって、『ビートルジュース』には「賢さによる面白さ」というスパイスが振りかけられたと、わたしは感じている。
これを「ぬるさ」と言い纏めてしまうこともできるが、続編としてここまで完璧なジョークの完成はないだろうと思うのだ。

35年もの間、ウィノナ・ライダー演じるリディアを想い続けたビートルジュースは、明らかに前作よりセンスがいい。だって今度こそはリディアと結婚したいんだもの。(このくだらなさが最高)

35年もの間、様々な技術システムが生まれ育ったというのに、結局80年代のテイストを引継いでいるというセンスがいい。だって使う側の人間は何も進化できていないんだもの。(この皮肉が堪らない)

35年もの間、温め続けた『ビートルジュース』の全貌が、馬鹿なことに対して、持てる賢さを全振りするという構図がいい!だってそうでもしないとこの世界の住人みんな馬鹿なんだもの!(この設定が秀逸)

馬鹿に馬鹿を足してもうるさいだけだが、馬鹿がちょっとばかりの賢さを身に付けるというのは、あまりに面白すぎる。そしてそのガイド役として、"あの頃"の馬鹿を知らないジェナ・オルテガ演じるアストリッドが中心人物に据えられるというのも、やはり続編として完璧である。

ひと口に"続編"といえども、それが前作の"焼き直し"なのか、"おかわり"なのか、"追加トッピング"なのかで、そこに生きるジョークは大きく変わってくるだろう。本作のそれは、おそらく"味変"という、いちばん楽しいやつだと、わたしは思った。

もちろん、こういうの(↑)もあります。


そして最後に、まさに"あの頃"から"これから"を期待するに相応しい演出の話だが、記事冒頭で伝えたタイトルをもう一度振り返ってみよう。

1988年公開『ビートルジュース』
その続編、2024年公開『ビートルジュース ビートルジュース』

‥‥ということは?という考察ホイホイである。

「ビートルジュース、ビートルジュース、ビートルジュース」と3回唱えると、霊界より人間怖がらせ屋のビートルジュースが現れるというトンデモ設定の本シリーズ。
続編タイトルで、その名を2回まで唱えたということは、つまりはそういうことじゃないかと、ファンなら誰しも期待を寄せてしまうだろう。

しかし、これはわたし個人の願望でしかないが、仮に3作目『ビートルジュース ビートルジュース ビートルジュース(タイトル長すぎ)』が制作されることになったとしても、その公開は今回同様10年単位のスパンを持ってほしい。

もちろん監督は今年で66歳。ウィノナ・ライダーは53歳。マイケルキートンに至っては73歳であるゆえに、続編の続編を望むなら、そんなに悠長なことも言っていられないだろう。が、35年ぶりの続編となる本作が、そのリアルな時間経過を含めて非常に味わい深い1本になっていると感じられた以上、さらなる深みを、2024年が"あの頃"と言えるくらいの深みを持つまでは、またしばし彼らには霊界でひっそりと暮らしていて欲しいと思うのだ。

"あの頃"の再来を目の当たりして、"これから"が楽しみになるなんて、なんと贅沢なことだろう。不思議とこの作品の、この布陣ならば、10年、20年後の公開も実現出来そうな気がしてしまうのだが‥‥
それもすべてティム・バートンが仕掛けた"あの頃バイブス"の魔法による効果なのかもしれない。

だって35年ぶりで、この生き生きっぷりよ?
あ、死人だから死に死にっぷり??


兎にも角にも、ハロウィンを控えた10月秋の1本に、『ビートルジュース ビートルジュース』が、豊かな時間をもたらしてくれることは間違いない。

懐かしさと新しさが入り混じる楽しさを、秋の夜長に味わってみてはいかがだろう。


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