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集団の中のグラデーションを見逃さない


学校(小中高)、というのは大きな声が作る支配的なストーリーに組み込まれやすい場なのだという。そう聞いた時、誰もが想像するであろうスクールカーストやいじめは、必ずしも当事者たちの気質・性格がその原因というわけではない。例えば、成績、所属している部活。そういったもので位置付けられている場合があるという。



かき消されそうになる小さな声に気づくときはありますか。それをどのように活かしたらよいでしょう。あなたの考えを述べなさい。


そんな授業の課題では高校の国公立至上主義について綴ったけれど、それは本当に書くべきことをうまく言葉にできずに、主題を変えて逃げただけ。私はもっと綴るべきことがある。そんな気がしていた。




私の中には何人かのワタシがいる。

"許せない"と激昂する私と、
悲しむ私。

"傷つけられた"と自分を可哀想に思う自分と、
"自分が悪いんだ"と自分を責める自分と、
相手をゴミだなぁと冷たい目で眺める自分。

他人と違う人でありたい私と、
"普通"になりたいと願う私。

"何者かになりたい"と願う私と、
"そんなこと望まない"と首を振る私。


気分や状態でどれかひとつに偏って自分が歪みそうになるたびに、もう片方の自分で「大丈夫。」と言い聞かせて、心の天秤を均衡に保ってきた。

偏った自分を止めてほしいとき、一旦受け入れてほしい時に愚痴が溢れる。止めたいときに文章で綴る。

私が何度も同じことを綴るのは「ある出来事に対して納得のいく表現を見つけたいから」。それは自分のそのときの心にとって都合のいいストーリーを信じて生きていたいということ。事実は1つかもしれないけれど真実は人の数だけあるように、心で何を思い、自分の中でどう考えるかは、等しく自由だ。


ナラティブ療法は、まさにそういった考え方を持つ心理療法。カウンセラーは客観的事実を捨てて、クライエント自身の"語り"に耳を澄ませ、それらを受容し、そこで語られるクライエント自身の主観的事実に沿って心理面談を進めていく。

語りとは、クライエント自身が出来事(客観的事実)同士をどのように繋げ、どう受け止めているかが表れるものだ、と考える。


先生は言う。


「すべての会話は常に新しい」
「問題は解決するものではなく、解消するもの」





公認心理師になるために必修の心理療法の授業を、公認心理師を目指しているわけではなく、受験資格を持っておいて損はないからとしか考えていない自分が取ることに決めたのは、

5つの心理療法のうち認知行動療法ではなく「ナラティブ療法」を選んだのは、

春学期の認知行動療法や学校カウンセリング論と同じ時間に文化心理学や色彩論が被っていたからというのが表向きの理由だけど、

なんとなく惹かれるものがあったからだというのが正直な理由。




*****



ある日、本を読んでいてどうしようもなく心に残った言葉があって、写真に収めた。


「右と左に分けよう、ってことになれば、一ミリずつ左右にズレている人たちだって、一キロ離れている人たちのところまで、ザッと分けられる。」
「右側に集まった人たちも、左側に集まった人たちも、本当はみんな少しずつ違う場所にいたはずなのに、そちら側にいるからってことで、大きな集団に入れられてしまう。それを繰り返していくと、結局真ん中にあるものが何なのかよくわからなくなる。だけど争いの規模だけは大きくなっていく」

そういう、集団の中にあるグラデーションを見逃さないようにしたいなと思う

朝井リョウ『死にがいを求めて生きているの』


この本の感想文を書こう、書こう、と思いながら書けずにいた中で、授業で冒頭の課題を提出した後にこの言葉が頭をよぎった。


日本語って、英語とかフランス語と違って、主語がなくても成立してしまう。本当は「私はこう思う」「あなたはどう思う?」が必要なのに、ない主語を勝手に「普通」「みんな」と補えてしまう。聴く側が勝手に補完することもあれば、言う側に自分の意思がないことで「みんな」を主語にしてしまっていることもある。


だけどきっと「普通」とか「みんな」という言葉は、右と左だけに分けるとき、それに歯向かう人を従わせたいと思ったときに使われるという側面があるのだろう。大きな声で右と左を分けられることで、右と左という支配的なストーリーに組み込まれて、それに抵抗する小さな声がなかったことにされてしまうのだろう。


たとえば、私はトイレに行きたくもないのにトモダチに「トイレ行こう」といわれて行かなかったらハブられてしまうこと。私は別になんとも思っていない、もしくは好ましいと思っていた人の悪口を、トモダチにとって敵だからと一緒になって言わなければ仲間はずれにされること。私は泳ぎたいから泳いでいるのに、真面目にやらない人のせいで練習ができないこと、悪口を言われること、それのせいで退部に追い込まれること。



「なぜ私がこんな目に遭わなきゃいけない?」という小さな声と同時に湧き上がる「自分がおかしいのだろうか」という小さな自信喪失。それらにいち早く気づいて、たとえ周りによってかき消されそうになっても、自分の叫びを自分の中だけでは忘れぬように、かき消さぬように、心に抱いて生きてきた。


問題は解決するものではなく、解消するもの。


問題は解決しようとすると、大きな声の支配的な物語を変えようとしてしまう。だけどきっと、本当は大きな声の中にも小さな声があって、小さな声を抱いてきた私が目指したいのは、集団の中にあるグラデーションを見逃さないことなのかもしれない。


私が抱いてきた小さな声、これからも気づいていく小さな声は、集団の中にあるグラデーションを見逃さず、いろんな人の小さな声に気づき、手を差し伸べることに、活かしていきたい。


そんな人でありたい。


そうやって生きていきたい。









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