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なんらかの事情
その日、ウサギは図書館のテラスで、温かい紅茶を両手で包みながら、透き通る冷たい空を見上げていた。
「私はいったい何になるんだろう…?」
ほのかな香りの中で、ぼんやりとそんな考えが浮かんでは、また消えていく…。
「そういえば、この前読んだ本に、こんなお話があったわね。もう何度も読み返してしまったわ...」
「そのお話は余った瓶の話だったの。ジャムを作るために集めていた瓶が、何らかの事情で使われなくなってしまったのね」
「だからその人は、瓶を処分しようとして、テーブルの上に並べてみたって話なの。そうしたらどうなったと思う?」
「ずらーっと並んだ瓶たちを見下ろしていたら、王様になった気分になっちゃったんだって…。そして、何度もこう叫んだらしいわ、『愚民どもめ!』ってね」
ウサギは両手を腰にあて、得意げに王様のポーズを取ってみせる。
「その結末がまた傑作なの。すっかり楽しくなって、『愚民どもめ!』って何度も叫んでいたら、肝心の瓶を捨てるのを忘れてしまったんだって!」
「あとね、こういうのもあったわ。車に付いているカーナビのお話よ。カーナビがせっかく親切に道案内をしてくれているのに、ぜんぜん従わないドライバーのお話なの…」
「カーナビさんって本当に健気なのよ。何回無視されてもめげずに道を教えてくれるの。それに、新しい道が出来ていると戸惑って言葉に詰まるのよ」
「新しい橋を走ったりしたらもう大変!カーナビさんはなんて言うと思う?『海です!海です!海ですよぉぉぉぉ!!』だって!」ウサギは機械の声色を真似て、思わず吹き出した。
「ドライバーが本当に海に飛び込んだと勘違いして、必死に警告したのね。もうね、その場面の描写が絶妙で、思わず吹き出しそうになったわ」
「こんなふうに世界を表現できるんだなって思ったら、いつかはこんなお話を書ける人になりたいなって思ったのよね…」ウサギはふっと息をつき、カップを傾けた。
「うん!やろうと思えば、ぜーったいになれる!だって、私の物語を描くのは、ほかの誰でもない、この私なんだから!」
冬の陽射しが紅茶の表面に反射し、金色の光がふわりと揺れる。 いつか、この手で物語を紡ぐ日が来る。そう思うだけで、未来がほんの少しあたたかく輝いて見えた。
<なんらかの事情>
岸本佐知子・著/筑摩書房