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「公的社会保障」という人類史上最大の詐欺

「【五公五民】団塊世代が後期高齢者になっても社会保障制度を抜本改革できない政府の不作為 高齢有権者に不人気な政策を敬遠してきたツケ」
(マネーポスト/河合雅司)


 後北条氏の先祖、伊勢宗瑞公が布いた四公六民の税率は、当時としては画期的な低税率であった。
 税率が低いと人が集まる。人が集まると経済活動が活発になる。経済活動が活発化すれば税収が増える。増えた税収で国防を強化し、治安を良くし、公共インフラの整備を行う。それが国のさらなる成長に繋がる。これ以降、日本各地で多くの国が四公六民の税率を採用する様になったのも当然と言えよう。
 日本に古くからあった国家運営の基本であるが、「低税率」が基点となっている事は疑いようも無い。

 引用した記事によると「五公五民」だとか騒がれている様で、これが実状だとしたら、伊勢宗瑞公の時代よりも高税率という事になる。無茶苦茶である。
 税というのはゼロにする事は出来ない。理由は先に述べた、国防、治安維持、公共インフラ整備である。
 これ等は市場経済の原理では賄えないが、自由闊達な経済活動が可能な社会を維持する上で無くてはならないものである。故に、完全無税は有り得ない。
 要はバランスである。経済成長を促す上で税は可能な限り少なくすべきだが、余りに少ないと、他国に侵略される、犯罪が増える、住み辛い国になるといった問題が起こる。
 このバランスを保つ為に重要なのは、政府機能を最小化する事である。政府というのは絶大な権力を有する。手を出せる領域が拡大すればする程、その権力は肥大化する。人は生まれながらにして善では無い。私利私欲で権力を得ようとする者は必ず存在する。小さな政府を維持出来ておれば、その様な輩が権力者になったとしても被害を最小化出来るという事である。

 「小さな政府」「大きな政府」という概念が存在する。前者は正しく、後者は悪である。
 「小さな政府のメリットとデメリット」「大きな政府のメリットとデメリット」などと言うバカが居るが、この様な物言いは全て嘘だと決め付けて良い。
 前段で国防、治安維持、公共インフラ整備の3項目を挙げたが、政府はこの3つだけをキチッとやっておれば良く、それ以外をやらせてはいけない。
 という事を考えると、次の事が見えてくる。
 即ち、年金、医療、教育は、実のところ政府に手を出させてはいけないという事である。本投稿では年金と医療について解説する。


 「老いて働けなくなったら・・・」
 「大きな病気を患ったら・・・」
 「事故に巻き込まれて身体機能の一部を失ったら・・・」
 これ等は誰もが人生において抱える悩みであるが、左翼というのはこういった悩みに付け込むプロである。
 「その様な心配は政府が解決すべきです」
 「私を政府の要職に押し上げてください」
 「そうすれば私が責任を持って、政府が運営する年金制度や健康保険制度を作ります」
 この様にして生み出されたのが、国民(強制)年金制度であり、国民(強制)健康保険制度に代表される、公的社会保障である。

 現代には保険会社が幾つもあるので、年金も健康保険も彼等に任せておけば良かった訳だが、政府が手を出す形になってしまったので、民間の保険各社は補足的なサービスしか用意出来ない。(しても売れない。)
 政府が用意する年金や健康保険への加入が任意であればまだ良かったが、生憎と「強制」なのでどうにもならない。

 引用した記事に次の様な一文がある。

度を越せば制度として機能しなくなるためだ。

出典:河合雅司の書いた記事より

 この一文は、河合雅司とかいうヤツが何も分かっていない事を端的に物語っている。度を越そうが超すまいが、制度として機能しなくなるのは当然だからである。


 民間の保険会社が用意する商品は、読んで字の如く「商品」である。また、それらの購入者は「お客様」である。
 政府が用意する年金制度や健康保険制度は、読んで字の如く「制度」である。また、それらの加入者は「管理対象」である。
 民間の保険会社には競合他社が幾つか存在するが、政府にはそれが無い。
 この様な事実を踏まえ、民間の保険会社と政府。年金や健康保険を運営する上でどちらが相応しいか、考察してみる。

〜考察①〜 運用

 民間の保険会社にとって、お客様から頂いたお金を運用して資産を増やすのは、生き残る為の手段である。
 運用に失敗でもしたら、社の収益を圧迫する。自分達のボーナスが減る、給料が上がらない、最悪の場合は会社が潰れて路頭に迷う。死に物狂いである。
 一方の政府はというと、管理対象から収集したお金を運用する事に、民間ほどの真剣味などあろう筈が無い。携わる人間も、就職する段階から“保険屋”を志していた訳ではなく、単にそこへ配属されただけである。
 運用に失敗したところで、加入者から徴収する額を上げれば良いだけである。文句があろうがなかろうが、政府の定める制度に逆らえる者は存在しない。運用を丸投げした下請けに、「短い期間ではプラスやマイナスに大きく振れることもありますが」などと、木で鼻を括った様な口上を述べさせて仕舞いである。
 上手くいく方がおかしい。

〜考察②〜 企画

 民間にとって、生み出した商品が売れれば売れるほど赤字を生み出す様では洒落にならないが、お客様に相応の安心と補償を提供出来なければそもそも売れない。
 自社の収益と顧客満足を如何にして両立させるか。試行錯誤、トライ&エラーの繰り返しである。
 一方の政府はというと、作り出すのは商品ではなくて制度である。収益を生み出すどころか、持続可能性の確からしささえ満足に検討していない。しかもその制度への加入は強制なので、集客の心配をする必要が最初から存在しない。
 その上、いざ破綻の恐れが出て来ても、得意のお役所体質で改善もままならない。挙げ句の果てには利権でガチガチになっていて、改善施策そのものを潰される。
 破綻しない方がおかしい。

〜考察③〜 競争原理

 民間にとって、競合他社に負け続ける事は死を意味する。A社が「殆ど全国民が加入する様な健康保険制度など商品化は不可能」と判断したとする。
 だが、需要のあるところに供給というものは必ず発生するものである。
 B社が一応は商業ベースで採算の合う商品を企画する。そして、それを見たC社がちょっとだけ顧客満足度の高い商品を用意する。B社が追従する。こうなるとA社も取り残される訳にはいかない。
 一方の政府だが、政府A、政府B、政府Cなどあり得ないし、あったとしたら、それはそれで大問題である。競争による制度の進化など絶対に起こり得ない。

〜考察④〜 「お客様」「管理対象」

 民間にとって、自社の商品を購入してくれる者は大切な「お客様」である。買ってくれるまでは上手いことを言っておいて、いざ補償が発生するという段になってゴネる様な手法を取ろうものなら、その様な噂はあっという間に回る。
 別に、客の方がエライなどという話ではなく、顧客満足を追求せず、蔑ろにする様な企業はいずれ淘汰されるという事である。
 一方の政府にとって、制度に加入した者は「管理対象」である。ソレらが大きな不満を抱けば、時の政権を担う政治家が引き摺り下ろされる事はあるにせよ、政府そのものは不滅である。
 政治家にとって、管理対象の満足度よりも重要なのは、制度によって生まれた利権を貪り、同類の覚えを良くし、次の選挙でも勝ち切れるかどうかである。
 政府の場合、管理対象を蔑ろにしても致命傷にはならないという事である。

〜考察⑤〜 問題発生に際して

 年金記録問題、いわゆる「消えた年金問題」は、公的社会保障の愚かしさを全日本国民が知る大チャンス到来だった訳だが、結果はご存知の通りである。
 民間の保険会社があの様な問題を起こしたら即死だが、政府は微塵も揺るがない。精々、政権交代のきっかけになる程度である。
 あの問題を経ても尚、公的社会保障が存在して良いと思う者は愚劣の極みである。


 当ブログでは何度も書いているが、左翼というのは詐欺師の一形態と見做すことが出来る。これは、いわゆる“左派政治家”の主張を見れば理解出来よう。公的社会保障は正にその代表格である。
 左翼思想の権化たる厚生労働省のHPで以下の様に述べられている。

 私たちの人生には、自分や家族の加齢、障害、死亡など、さまざまな要因で、自立した生活が困難になるリスクがあります。こうした生活上のリスクは、予測することができないため、個人だけで備えるには限界があります。そこで、これらに備えるための仕組みが、公的年金制度です。

出典:厚労省のHPより

 「自分や家族の加齢、障害、死亡など、さまざまな要因で、自立した生活が困難になるリスクがあります。」という部分だが、ここは分けて認識しなければならない。
 何処をというと、「自分」と「家族」である。
 「自分」が加齢や障害で働けなくなった場合、助けにすべきは「家族」であり、「家族」は「自分」を助ける義務を有するという事である。(※補足①)
 結婚して家庭を築くのは自助努力の一貫である。自助努力無くして生きる権利を叫ぶのは、恥知らずの所業である。
 では、「自分」だけでは無く、「家族」も加齢や障害で働けなくなった場合はどうするか。こういうリスクは家族全体で予測し、備えておくべきである。
 従来、この備えは貯蓄であった。自転車操業のような生活を避け、収入を全て使い切るのではなくて、リスクを想定して生きる糧を蓄えておくという事である。

 現代社会において、この「リスクを想定する事」が昔よりも遥かに困難なのは確かである。
 ある程度以上の健康を保てておれば、80歳や90歳まで生きるのが当たり前になり、老後により多くの金がかかる様になった。
 医療技術の向上によって不治の病すら克服出来る代わりに、医療の為に積み立てておくべき資金も昔とは比べものにならない。
 皆、人生を経験するのは一度きりである。いくらの積立があれば良いかを”経験として知っている“者など存在する筈が無い。ならば、それを生業とする者が居たらどうか。生業ならばこそ多くの事例を蓄積出来、積立と補償を上手くバランスさせられるのではないか。
  年金保険や健康保険とは、その様な需要を商機と捉えた者達によって生み出された商品である。
 ある者は言葉巧みにカネを受け取りつつ期待を裏切って消えてゆき、ある者は期待された以上のサービスを提供して信頼を勝ち取った。今存在している保険会社とは後者の様な存在である。

 ここで出てくるのが左翼という名の詐欺師である。
 「保険会社は民間企業です。倒産したらどうするんですか?」
 「年金や医療資金は全ての人に共通の心配事です。だから、政府が責任を持つべきです。」
 「政府なら倒産して補償が滞ることはありません。年金や健康保険は政府がやるべき仕事です。」
 この様な甘言に大多数が騙された結果として湧いて出たのが、国民(強制)年金制度であり、国民(強制)健康保険制度である。
 だが、これ等の制度は既に破綻している。年金も健康保険も、一義的にそういった名目で徴収された分だけでは支出を賄えておらず、各種税金やら国債発行によって補填されている。

 税とは本来ならば、国防と治安維持と公共インフラ整備に供されるものである。これ等を疎かにしないのならば、政府の運営する年金や健康保険の為に、我々は必要以上に税金を徴収されているという事になる。冒頭で述べた、伊勢宗瑞公の治政とは真逆である。
 国債とは債券の一種であるが、野放図に発行すればする程、その価値も野放図に下落する。今は日本国内の金融機関がこぞって国債を買い続けているから「国債発行で賄う」などという理屈が罷り通る訳だが、このまま政府の借金が増え続けるとどうなるのか。
 金融機関が国債を買い続けるのは「政府は必ず借金を返してくれる筈」という信用に基づくものである。よく「日本国民全体で金融資産が千何百兆円」みたいに言われるが、金融機関の言う「政府は必ず借金を返してくれる筈」とは、「政府は必ず国民の金融資産に巨額の課税をして返済金を用立ててくれる筈」という意味である事を理解しておかなければならない。
 何故にここまでして国民(強制)年金や国民(強制)健康保険を手放さないのかと言うと、増税や国債発行における格好の口実になるからである。

 政府が社会保障を担う事で国民は勘違いをする。老いて働けなくなった時、大病を患った時、自分を助ける義務を有するのは政府であると。
 この様な勘違いの積み重ねによって、公的社会保障を詐欺と認識出来る者すら最早希少である。
 公的社会保障は国民を助ける為の制度では無い。国民の資産を収奪する手段である。公的社会保障は空前絶後、人類史上最大の詐欺である。
 例え騙されている事が分かっていても、誰も逆らえない、訴える事も出来ない、逃げることすら出来ない、逃げたら罰せられる。
 国民が一丸となり、自助努力によって生きる気力を取り戻すことだけが、この状況を打破する唯一の手段である。


※補足①:家庭

 家庭内というのはガチガチの共産主義でなければならない。
 「オレの稼いだカネをオレが使って何が悪い」
 悪いのである。お前が稼いだカネは家族全体の資産である。お前個人が自由にして良いのは、家庭内のルールで定められた範囲内までである。
 ところで、「オレ」は「ワタシ」にも置き換えて考えねばならない。母親がパートで稼いだカネも家族全体の資産である。
 家庭というのは、自活出来ない子供や高齢の父母を内包するものである。それ等を生かすのは、共産主義思想を置いて他には無い。「オレ」が、「ワタシ」が稼いだカネで、我が子や老いた両親を養うのである。
 社会は資本主義。家庭内は共産主義。これが理想的な状態である。

※補足②:詐欺

 日本共産党が社会保障の拡充を訴えるのは、ヤツ等が詐欺師である事を証明するものである。
 この様な政党に投票するのは、自身の子や孫を詐欺師に供するのと同義である。
 よく、駅前で高齢の方が日本共産党発行の「赤旗」という新聞を配っているのを見かけるが、心底からゾッとする。この世のどんなホラー映画より、遥かに恐ろしい光景である。

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