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Re: 【短編小説】8月32日の人魚

 ようやく酷暑が終わりに近づいた頃に、蝉がチクショウと呟いて墜落した。
 ノストラダムが世界の終わりを証明できなかった夏に、鴨のジョナサンが幾度目かの挑戦の末ついに音速の壁を越えて夢になり、それに続いて夕陽に向かって鬼蟲が飛んでいって水平線が緑色に染まった頃、犬吠埼の海辺に美しい金髪の女性が白波の間から現れた。


 彼女は海底の沈没船から拾い集めた西洋の鎧をまとい、夕焼け色の海と似た光を放つくたびれた鎧兜の隙間から、真冬の水より透き通る美しい歌声を響かせた。
 そして鎧と同じように拾った長い槍で、岩や水面を叩いてみたが、何の反応もないことを識ると、暗くなった海へ溶けて落ちるように流れ出て行った。

 8月32日になったその夜、ひとりの少年が海辺で散歩をしていた。
 名を大堂脈 コリコリ太郎という。
 コリコリ太郎は父親のジャケットからくすねた煙草を吸いながら、近所のスーパーで買った安物のラス・コーラで喉を濡らした。 
 駄菓子のようなジュースは奥行のない味がして、学校給食みたいで少し厭な気分になったが、紫色をした煙草のケムリやオレンジ色をした電話ボックスの灯りだけは自分の味方に思えたから、少し安心して暗い夜道を歩くことができた。


 そうして散歩をしていた大堂脈コリコリ太郎が、短くなった煙草を投げ捨てようとした時に、視界の端に女を見た。


 その女は浜辺ではなく、海に浮かぶ岩場のひとつに腰かけていて、ボロボロに朽ちた西洋の甲冑を身に着けていて、足は海の中に揺蕩っていた。
 その朽ちた甲冑からあふれ出ていふ月明かりを受けた髪は見た事も無い金色に光り、その隙間に見えた肌は夜が明ける直前の波の泡みたいに青白い肌をしていた。


 大堂脈コリコリ太郎は火の消えた吸い殻をポケットに押し込むと、岩場まで駆けていって彼女に話しかけた。
 女は彼の話を聞きながら微笑んだが、大堂脈コリコリ太郎はその微笑みに少し不気味さを感じた。
 あまり人の話を興味深く聞かないで愛想笑いをする同級生の女の子や、部活の後輩女子がよくやる気を使った灰色の笑い方に似ていたからだ。
 コリコリ太郎は岩場に並んで座ると色々と話しかけたが、女は何も答えずに微笑んだり頷いたりするだけだった。

 異邦人なのか聾唖か、または知恵遅れかとコリコリ太郎が不安を感じ始めた頃、女がコリコリ太郎の手を引いて波間へと誘った。
 話に飽きたという事だろうか、そう思ったコリコリ太郎は素直に岩場を降りて海に入った。
 女は微笑んで海に潜った。
 手を引かれたままのコリコリ太郎も一瞬遅れて海に潜った。
 夏とは思えないほどに澄んだ海は、まるで幼い頃に訪れた水族館のようだった。

 女は大堂脈コリコリ太郎の手を引いて自分の喉を掴ませると、その腕に耳を当てるように身振りで示した。
 大堂脈コリコリ太郎は言われたように女の青白く柔らかい喉を優しくつかんで自分の耳を腕に当てた。
 すると女は「私は人魚。今夜、私が持つ槍に触れたものは死にます」と告げた。


 大堂脈コリコリ太郎は驚いた。
 しかしコリコリ太郎は彼女に魅了されていたし、今夜は8月32日だから全てがどうでも良かった。
 蝉は墜落してしまったし、ノストラダムスの証明も失敗に終わり、ジョナサンは自身の衝撃波に耐え切れず崩壊してしまった。

 全て夢になってしまった事を思うと、もうやるべき事は決まっていた。
 海から上がった大堂脈コリコリ太郎は海辺を歩き始めた。
 大堂脈コリコリ太郎は砂浜を歩き、彼女は少し離れた浅瀬を泳いだ。波の音に裏打つリズムで彼女の尾ひれは水面を叩いた。

 やがて夜が明け始めた頃、彼女は槍を持ち上げ、ゆっくりとした動作で大堂脈コリコリ太郎に向けた。
 無駄のない、洗練された優美な動きだった。
 大堂脈コリコリ太郎は彼女が真剣な表情をしているのを見て、彼女が本当に殺すつもりだと悟った。
 心のどこかでキューピッドの矢だとか、そういう事の比喩であって欲しいと願っていた。


 だから本当に8月32日が終わるんだと思った。


 もうお父さんにも会えないし、お母さんにも会えないんだと理解した。
 厭な学校も、夕方も明け方も、全てが終わるのだと思った。
 急に怖くなった大堂脈コリコリ太郎は必死で逃げようとしたが、女はその背中に向かって錆びついた槍を投げつけた。




 その槍は大堂脈コリコリ太郎の身体を貫き、大堂脈コリコリ太郎は倒れた。
 女は槍を引き抜くと高らかに歌ってからその場から泳ぎ去り、大堂脈コリコリ太郎はその美しい歌声を聴きながら息を引き取った。


 浜辺に打ち寄せる波間に響くその声は、先ほどより一際若く、艶やかでしなやかに伸びた。

 翌朝、コリコリ太郎の遺体を発見した警察は事件を調査したが証拠は何も残されておらず、誰にも何が起こったのか分からなかった。
 分かったのは、大堂脈コリコリ太郎少年の身体には槍の傷跡が残されており、彼が何者かに槍で刺し殺されたことと、父親からくすねた煙草を吸っていた事だけだった。


 そしてその事件以来、夜中に犬吠埼に現れる金髪の美しい人魚の噂が広まり、多くの人が彼女に会いに訪れるようになった。
 しかし彼女は一度もその姿を見せなかった。ただ、月の夜には美しく艶やかな歌声だけが時おり聞こえると言う話だけが広まっていった。


 大堂脈コリコリ太郎の死は少なくない人々に影響を与えた。
 彼の家族や友人たちは大堂脈コリコリ太郎が亡くなったことを悲しんだ。
 そして大堂脈コリコリ太郎の死は、人々が神秘的な存在を信じるようになるきっかけとなった。
 ただ、数年もするとそんな人々もコリコリ太郎のことをすっかり忘れてしまい、8月32日はこうして存在そのものを忘れ去られることになった。

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にじむラ
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