Re: 【短編小説】軍手は静かに死ぬ
秋と言うにはまだ暑く湿っているが、虫の鳴き声をたぶんに含んだ風が辛くなってパワーウインドウを上げると、それを待っていたかのように運転席に座った男が尋ねた。
「この前ってどんな仕事してたんすか?」
俺はダッシュボードで揺れるバブルヘッドを眺めながら答える。
「金貰ってジジイやババアを山とか海に棄ててくる仕事」
運転席の男はこちらを見るとあまり驚いてい無い声でとても驚いた顔をした。
「うへぇ、マジであんすね。そんな仕事」
ラジオつけていいすか、と訊くと俺が答える前に小さな音でラジオを流した。
運転席の男は視線をパネルから前に戻すと
「なんかマグロ拾いとか死体洗いのバイトとかみたいに都市伝説だと思ってましたよ」
と言ってフロントガラスにウォッシャー液を噴射した。
フロントガラスの汚れがワイパーで端に寄せられていく。
俺はそれを指差して「ガソリンスタンドでこの汚れを落として貰うだろ、それと同じだよ」と言うと、運転席の男は再びこちらを見て「そう言うもんっすかね」と言った。
途切れた会話の隙間を、かすかな音のラジオが埋めていく。アンビエントと言うには弱々しく、だが巻き舌気味にはしゃぐエンジンの音は少し遠くに聞こえていた。
自分のことを訊かれたら相手にも同じことを訊き返すのが会話だ。
俺は自分のことについて話すし相手は相手自身のことについて話す。
部屋には赤い線を引いり付箋を貼ったりしたその手の本が大量に転がっている。
練習通りにやるんだ、と心の中で3回唱えてからゆっくりと声に出した。
「アンタは、この前は何を」
シリカゲルでも飲み込んだように乾いた喉が今にも割れて血を噴き出しそうな声でようやく尋ねた。
「俺はアレっす、いまと同じ運転っす」
運転席の男は飄々と答える。
「あー、でも別に運転とか好きなんじゃねーすけどね。なんか気付いたら運転の仕事してるって感じっす」
黒い影に沈んでいた運転席の男をオレンジ色の街灯が照らす。
ふわり、と浮かび上がった男の顔は複雑な陰影に富んでいる。
そしてその顔は再び影に沈んでいく。
道路はその繰り返しだ。
「ほら、俺って顔がこんなんじゃないすか。だから色々と難しくて」
運転席の男は顔をこちらに向けた。
男の顔は病気か何かであちこちが出っ張ったり削れたりしていた。
そう言えばそうかも知れないな。
社会とはそう言うものだったかも知れない。だが、そんな時はこう言うんだと本に書いてあった。
「仕事なんて別に顔でするもんでは」
ないだろう、の音が出ない。
相変わらず引き攣った喉と舌は文末まで話すことを許さない。
唇を舐める。
まるで鱗がついたままの魚を撫でたようだった。
運転席の男は少し笑うと
「でもアレじゃねーすか、店員がこんなんだったら厭になんねーすか」
と訊いた。
「別に」
それは本心だ。
人は顔で仕事をする訳じゃない。商売女だって同じだ。
暗闇に沈んだままの運転席の男は
「やー、みんながそうだといいんすけどね」
そう言うと、顎先をオレンジ色の街灯に照らされながら笑った。
俺には笑った様に見えた。
ダッシュボードのバブルヘッドも肯定する様に頷く。
車内を漂っていた深夜ラジオは、いつからか流していたクラシック曲の演奏を止めてニュースを始めた。
どこかの神社にパワースポットを巡回中の給力車が空のまま発見されたらしい。
恐らく担当の2人は磁場に飲まれてしまったと警察は発表したようだ。
続けて新宿だか池袋だかの街中で女が刺殺された事件。
同じ卓を囲んでいた男が負けた腹いせに刺したと自供している、とアナウンサーは平坦な声で言った。
あとは天気予報。しばらく雨は降らないらしい。昔の未来は酸性雨が降り止まない予想だったが、実際は雨が降らない世界になっている。
そしてラジオは再びクラシック音楽の演奏を再開した。知らない弦楽器や管楽器の音が車内を転がっていく。
「さっきの話っすけど」
運転席の男はオレンジ色の光で時おり顔を闇から浮かび上がらせながら
「ニュースになったりしないんすか、姥捨みたいな仕事って」
こちらを見ないで訊いた。
だが続けて
「あーでもそう言うニュース聞いた事ないってことはまぁそう言うことなんすよね」
と一息に喋り、ひとりで納得した様に頷いていた。
静かになった車内をハザードの音が走った。
「見つけたっす」
運転席の男は穏やかなハンドルさばきで路肩に寄せた。
俺は止まりきる前に飛び降りて右手だけの軍手を拾った。
相棒と離れ離れになった軍手は浅い呼吸を繰り返していたが、俺と目を合わせると少し笑ってから静かに息をひきとった。
俺は運転席を振り向くと首を振って助手席に戻った。
「まぁ、仕方ねえっすね」
運転席の男はハザードからウインカーに切り替えて、再び穏やかにハンドルを回して走り出した。
巻き舌気味にはしゃぐエンジンが少し近く聞こえた気がした。
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