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誰からもほんとうには愛されていなかった三島由紀夫は、ボディビルで自己改造を行うようになる。

「私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとってはまづ言葉が訪れて、ずっと後からはなはだ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた。」(三島由紀夫『太陽と鉄』1965~68年)



三島由紀夫が、ボディビルに入れあげるようになったのは1955年9月からのこと。すでに三島はスキャンダラスな『禁色』と、嘘みたいに清純な『潮騒』を発表していて、三島の告白によるとはじめて女性とセックスできたという時期である。三島が『金閣寺』に着手するのはボディビルをはじめた翌年1956年である。



なるほど、三島由紀夫は少年時代、学習院の同級生たちにアオジロと呼ばれ、青白く虚弱な文学少年だった。そしてそれは三島の心に傷を与えた。



しかも、三島が「天上界の美」と讃美した丸山明宏(現・美輪明宏)にいたっては、三島の肩パッドを入れたスーツ姿に、「服のなかで体が泳いでるじゃない」とまで邪気もなく(!)三島に言い放った。三島は屈辱で泣き叫びたかったろう。その恥の意識が、三島をボディビルに駆り立てた。




しかし、ぼくはもう。三島のまわりにいた人たちの誰かひとりくらい、そのままのあなたであなたは魅力的、って言ってあげれば良かったのに。しかし、そんな優しい言葉を言ってくれそうな妹・美津子はすでに亡く、そんなことを三島に言ってくれる人はひとりもいなかった。それどころか両親は三島の健康への意志を歓迎した。その気持ちは理解できる。しかし他方、三島にとってボディビルは哀しい少年時代の克服だった。三島は良い子育ちで、祖母の、両親の、自分の才能を認め庇護してくれる先生や先輩作家の心もすべて尊重し、かれらの期待に精一杯応えてきた。そんな過去の自分を三島は超克しようとした、堅牢な肉体を作りあげることで。



しかし、逆に言えば、どんなにマッチョな肉体を作りあげようとも、しかし三島の依って立つ基盤は、才能あふれるロマン派作家であることだけであり、祖母、母、父、そして恩師などコドモ時代から他人の期待に応えてきたばかりの三島には、確固たる自分自身というものがなかった。少なくともぼくはそうおもう。依然としてかれの心のなかには青白く心優しい、月の光の下に立つ孤独なロマン派文学少年が棲んでいた。これだけが逃れようもない三島の真実だった。たとえ戦後日本でロマン派文学者がいかに時代遅れな存在であろうとも。






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