三島由紀夫29歳、めでたく童貞喪失。ボディビルで自己改造を行うようになる。
「私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとってはまづ言葉が訪れて、ずっと後から甚だ気の進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた。」(三島由紀夫『太陽と鉄』1965~68年)
三島は良い子育ちで、祖母の、両親の、自分の才能を認め庇護してくれる先生や先輩作家の心もすべて尊重し、かれらの期待に精一杯応えてきた。また、三島は少年時代、学習院の同級生たちにアオジロと呼ばれ、青白く虚弱な文学少年だった。また、二十代前半にあっても、三島が「天上界の美」と讃美した丸山明宏(現・美輪明宏)は、三島の肩パッドを入れたスーツ姿に、「服のなかで体が泳いでるじゃない」とまで邪気もなく(!)三島に言い放った。三島は屈辱で泣き叫びたかったろう。その恥の意識が、三島をボディビルに駆り立てただろう。また、そもそも三島の二十代中葉は〈遅れて来た反抗期〉であり、かつまた十代にやりたくてもできなかったことをやりはじめる時期でもある。そこには三島の、〈男になる〉という動機が感じられる。ただし、けっして理由はそれだけではなかった。
1955年7月末、29歳の三島は歌舞伎座の楽屋で豊田貞子さん(当時19歳)と出会った。彼女は慶應女子校一期生で、赤坂の芸者衆の呼べる料亭・若林のお嬢さんである。三島は貞子さんにぞっこんになって、連日連夜逢瀬を重ねるようになる。三島は29歳にしておそらくはじめて女性と肉体関係を持った。三島はうれしくてたまらない。三島は貞子さんと出会ったわずか一カ月後の9月から、ボディビルに入れあげるようになるのである。はやいはなしが三島はセックスするときに、自分の貧弱な肉体が恥ずかしかった。(これが三島の『永すぎた春』の主題になっています。)わかりやすいやっちゃなぁ、三島。たしかに三島にはいかにも育ちのいい、無邪気なところがある。しかしながら、三島の作品は無邪気からはほど遠く、むしろさまざまなガードがほどこされ、外連であることをためらわない。
三島がボディビルに専心したこと。おそらくこれは三島の人生を大きく変えた。では、いったいどのように変えたのだろう?
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