三島由紀夫と7人の女。母・倭文重(しずえ)さん。
三島の母・倭文重さんは二十歳で公威くんを生んだにもかかわらず、しかし、強権的で癇癪持ちの祖母なつに公威くんを奪い取られ、授乳以外に母らしいことをなにもしてあげられない。若い母・倭文重さん彼女の胸のなかはなつへの呪詛が燃え上がっていますが、しかし現実的には彼女はなつに従うほかない。
三島の没後1973年に、倭文重さんは『暴流のごとく』というエッセイでこの時期について書き綴っておられます。なつの癇癪と激情の恐ろしさ、なつの支配下でびくびくして暮らしている倭文重さんの心境、そしてわが子・公威くんがなつの支配下で、ろくに外にも出させず、女の子のように育てられていることに対してなにもできないはがゆさが書かれています。
「天使のように美しい心を持った子を私の手から奪い取った上、檻の中の動物のようにうす暗い病室の枕元にとじこめ、母親の私を嫉妬して、私に向けるべき鉾先を幼い可憐な者に情け容赦もなく突きさす。その上、手向かうことの逃げ出すこともできずにそれを見つめては苦しむ私を、小気味よい気持で眺めやる。それが私の夫の母なのだ。」
誰だっておもうでしょう、公威くんの父であり、倭文重さんの夫の梓は、いったいなにをしているのだ? もちろん倭文重さんは訴える。
「私の夫という人は何者なのか。何ひとつとして、口に出しては言えない私の立場を知っているのかいないのか。匂わす程度に遠廻しに、坊やを私の傍におきたいと言っても全く感じない風をする。面倒なことは一切御免だとばかりにそっぽを向く。慰めの言葉が欲しいが、それが無理ならせめて”うん”と頷くだけの反応でもいいと期待していたのは間違いであった。夫は自分のことで手一杯で、相手のことなど考える暇があるか、という態度である。口をついて出るのは一方的な命令ばかりで、夫婦の対話というものを私は知らない。舅は舅で一日中碁ばかり打っている。」
倭文重さんの哀しみは同情にあまりある。ただし、公威くんが12歳でなつの支配下から解放され、晴れて家族水入らずで暮らすようになってから倭文重さんはまるで恋人のように、公威くんを溺愛するようになるのだった。三島は生涯倭文重さんをおかあさまと呼び、執筆中の小説をすべて彼女に見せた。
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