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三島由紀夫は平岡公威を殺して、これからは芸術家=三島由紀夫として生きてゆくのだ、と決意した。『仮面の告白』

ーすべての嘘は独創性を作り出す技術である。(三島由紀夫『不道徳教育講座』1958年)



「私」とは誰だろう? あなたはこの、性の倫理観を動揺させ、読者の好奇の視線を集めようとする、スキャンダラスで議論誘発的な、そして高雅な文体で書かれた自伝的小説のページを目をらんらんと輝かせながらめくり、さんざん三島に翻弄され、読書の悪徳的よろこびを存分に味わいながらも、半信半疑読み終えて、ふっと溜息をつき、そしておもうでしょう。なるほど、『仮面の告白』というタイトルは、これしかないというほど的確なものである。なぜって三島由紀夫は読者が抱く感想をあらかじめ理解している、いったいどこまで真実なんだろう? もしかしたらこの作品は、事実をかき集めて構成された大嘘ではないかしらん??? だからこそ三島は読者の反論の先手を打ってタイトルに『仮面の告白』(1949年)とつけたのである。




まるで三島は自分自身に対する精神分析医さながらです。三島以外にこんなにも明解に自分自身を解説できる人はいません。なぜなら、ふつうは誰にとっても自分自身こそが最大の謎で、すなわち、自分がどんな環境でどんな選択をしてどんな経験を経て結果いま自分がどんな人に仕上がっているのか、さっぱりわからないもの。だからこそ、サイコセラピーの扉を開く人たちがいまだに後を絶たない。




それに対して、三島は自分のことは自分こそがなにからなにまですべて完璧に理解しているというスタンスをとっています。すなわち、三島は『三島由紀夫展』のキュレイターであり、三島は鑑賞者に自分の成り立ち方をひじょうに親切に説明してくれます。



あなたが会場に入ると、まずはじめにドストエフスキーの言葉の引用が貼ってあります。要約しましょう。「美という奴はおっかないものなんだよ。聖母の理想を目指して踏み出しながら、ソドムで終わる。理性の目では汚辱に見えるものが、感情の目には立派な美に見える。」いったいどういう意味でしょう? 大丈夫、おいおいわかるようになりますから。



「おろしたての爽やかな木肌の盥で、内側から見ていると、ふちのとことにほんのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく黄金きんでできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかし、その下のところの水は、反射のためか、それともそこに光りがさしいっていたのか、なごやかに照り映えて、ちいさな光る波同士が絶えず鉢合わせをしているように見えた。」



キュレイターの三島は言う、ご覧ください。わたしが赤ちゃんとしてこの世に生まれ落ちたときの写真です。盥の縁が輝いていますね、わたしはいまも盥の輝きをありありと覚えています。



次の写真はわたしの祖父です。祖父は殖民地の長官時代に、疑獄事件で、部下の罪を受けて職を退きました。莫大な借財、差し押さえ、家屋の売却、それから窮迫がくわわるにつれ、暗い衝動にますます燃えさかる病的な虚栄。



次は、わたしが自家中毒になったときの写真です。5歳の元日の朝のことです。わたしは、赤いコーヒーみたいなものを吐きました。



次の写真は、わたしが見た汲み取り人の写真です。わたしはかれに憧れました、わたしがかれで、かれがわたしであればいいのに。糞尿は大地の象徴です。あるいは、根の母の悪意ある愛が、わたしにそんなことをおもわせたのかもしれません。



次の絵はみなさんもご存じでしょう、ジャンル・ダルクです。美しい騎士の死。その観念はわたしを魅了しました。コドモの頃のわたしは、ジャンヌ・ダルクは男だと信じていました。ところがジャンヌ・ダルクは女でした。そのときのわたしの失望といったら・・・。(なお、病跡学においてジャンヌ・ダルクは、自己愛性パーソナリティ症候群説、あるいは統合失調症説があるそうな。この件についてぼくは、精神科医・鹿冶梟介かやほうすけさんに教えられました。記して感謝申し上げます。)




やがてわたしはオスカー・ワイルドの〈殺される王子〉の幻影にとりつかれてゆきます。あるいはそれはわたしが育った時代のせいもあるかもしれません、わたしは自分が戦死したり殺されたりしている状態を空想することによろこびを見出すようになります。



次の写真は、お祭りの神輿の写真です。ご注目ください、神楽の担ぎ手たちの世にも淫らな陶酔の表情に。それはわたしを目覚おどろかせ、切なくさせ、わたしの心を故知らぬ苦しみをもって満たしました。



果たして、三島のこの自分解説は、神輿の担ぎ手たちはほんとうの人生を生きていて、真の悦楽を感じているのに対して、他方、自分は祖母の部屋に閉じ込められ、文学に慰安を見出しているだけで、けっして自分はほんとうの人生を生きていないという悲しみの吐露でしょうか? それとも少年時代のかれは神輿を担ぐ男たちの「淫らな陶酔の表情に」
同性愛の目覚めを感じたことについて語ったものでしょうか? 



なるほど、この小説には〈いかにして三島はゲイになったか? しかも、いかにして三島はきわめて三島らしいゲイのひとつのタイプになったのか〉について、誠実に語られているように見えます。アンデルセン童話の殺される王子への共感。夢想のなかで胸に受けた銃創を抱いて膝まずいているサーカスの青年への欲情。墜落し頭蓋を割られて顔の半ばを血にひたして倒れている綱渡り師に胸を高鳴らせる昏いパッション。そして無頼漢の同級生、近江おうみへの欲情混じりの尊敬の念。しかしながら、そんな三島は女との接吻に熱烈にあこがれる少年でもあった。この作品のなかで三島はかつて少年時代の自分自身を「無邪気な肉慾を翼の下に隠し持った小鳥」と評する。たしかにそのとおりではあるでしょう。しかし、そもそも『仮面の告白』執筆時において、三島に男色体験があったとはおもえない。また、1章と2章の前半部と園子が登場してからの3章と4章の後半部には不整合感がある。これはいったいどういうことだろうか?



また、大事なことはもうひとつある。三島由紀夫とはデビュー作『花ざかりの森』において選択されたペンネームであり、かれの本名は平岡公威きみたけである。そして『仮面の告白』は私小説あるいは成長小説Bildungsromanを西洋近代小説のスタイルで書いたもの、というテイになってはいる。なるほど、この小説に書かれているエピソードの多くは三島の評伝的事実と符合しています。しかし、どういうわけか、この小説で主人公の「私」はまったく小説を書いていません。それどころか「私」は大学卒業にあたってあろうことか「Ephebe のトルソオ曲線と血流量の函数関係について」などというわけのわからない学位論文を書いているのである。(文庫版 p163) なお、Ephebe とはギリシア神話のなかの王エパポスのことであり、マッチョな青年彫像として知られています。これはいったいどういうことだろう? すでに小説内の「私」は作家三島由紀夫によって操作される登場人物なのである。しかも、すでに芸術家としてこの小説を書いている三島にとって、小説家になるための努力は平岡公威に属していているがゆえそれについて描く必要はない。なぜなら、小説内の平岡公威らしき人物はいわば前世に生きていて、そんなかれを縷々語る小説を書くのは生まれ変わって(潜在的男色嗜好を持つ)芸術家=三島由紀夫になりあがった自分の仕事であり、けっして前世に生きる平岡公威の仕事ではない。こうして芸術家・三島は、平岡公威成長ヒストリーにおいて、三島前史を語る上で有用なエピソードだけを採り上げて語り、しかし、書く人として育ち書く人になるために努力し精進し自分を作り上げたそんな平岡公威少年を殺した。なんて奇妙な論理だろう? では、平岡公威を殺すことで生まれ変った新生三島由紀夫とはいったい誰なのか? そしてこんな幽霊のような三島由紀夫は、果たしてこんな危なっかしい生き方で人生を生き切ることはできるのだろうか? 引き続き『仮面の告白』の探求を続けてゆきたい。








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