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一番賢明なのは、事情がそれに値するときだけ狂人になることだ。

これはジャン・コクトーが著書『阿片』(1930)のなかで書いた言葉で、三島はこれをぼくの愛する短篇『ラディゲの死』(1953)の末尾に引用しています。



ラディゲがチフスで死んだ後、哀しみのなかにある二十代のコクトーに三島はこんなせりふを与えています。「ラディゲが生きているあいだというもの、ぼくたちは奇跡と一緒に住んでいた。ぼくは奇跡の不思議な作用で、世界と仲良しになった。世界の秩序がうまく運んでいるようにおもわれた。奇跡じたいにはひとつも気づかずに、薔薇が突然歌い出しても、朝の食卓に天使が堕ちてきても、鏡のなかから、水のきらきらする破片を棘のように体内に刺されて、潜水夫がよろめき出てきても、馬が大理石の庭にその蹄の先で4行詩を書き出しても、当然のことのように、少しもおどろかずに見ていられたのだった。そんなことは、あたりまえのことのように、ぼくたちにはおもわれていた。ぼくは『奇跡』と一緒によく旅行に出た。『奇跡』はなんと日常的な面構えをしていたことろう!」いかにコクトーのラディゲへの愛が深かったかがわかろうというもの。だからこそ、ラディゲを失ったコクトーにはただひたすら絶望があるばかりでなのである。ラディゲが死んでからというもの、「朝の新聞では、自動車自己で五人家族がいちどきに死んだり、建設中の建物が倒壊したり、飛行機が落ちたりしたことを告げているのを見るたびに、ぼくはもしラディゲが生きていたら、こんなことは決して起こるまい、とおもわずにはいられないんだ。」



コクトーは貴族出身のゲイであり、ラディゲの死から5年後、二十代末の2年間、かれの信奉者である美青年とともに阿片に夢中になった。阿片はコクトーにとって、つかのまの熾烈な快楽と引き替えに、「皮膚の毛一本一本から悪魔が出てくる」日々でもあった。コクトーは著書『阿片』のなかで書きつける、「ぼくらが人生で行うすべてのこと、さらには愛でさえも、死に向かって走る急行列車の中で行うことだ。阿片を吸うことは、時流から離れること。それは、生、死以外のなにかで自分自身を占有することなのだ。」そしてコクトーは、ド・クインシー、ボードレール、そしてとりわけランボーの伝統を再発見する。(なお、この本の救いはプルースト、レイモン・ルーセル、バスター・キートン、チャップリン、エイゼンシュテイン、ブニュエルについてのコメントもあること。)



ぼくは三島のこの短編『ラディゲの死』がとても好きだ。ただし、ぼくはおもう、果たして三島は、人生最期のあの大活劇を除いて、「事情がそれに値するとき狂人に」なれただろうか? 三島は酒さえもそれほど好きではなかった。社交ダンスくらいは踊ったにせよ、熱狂のなかで踊り狂うというような趣味もなかった。ギャンブルもやらなかった。そんな謹厳実直な三島にとって、麻薬に手を出すなど言語道断だった。ぼく自身は麻薬のような恐ろしいものに手を出す気はないけれど、しかし、三島には何度も訪れた人生の危機において、阿片でも睡眠薬でも嗜めば良かったし、せめてときには泥酔するほど酒を飲んで欲しかった。なぜなら、三島のような頭でっかちな人にとってときに理性の外へ出ることは、とても大事なことだとおもうから。しかし、三島はどんなときにもすべてを理性で解決しようとした。












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