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三島由紀夫と7人の女。祖母、なつ。

道幅の狭い大通りに面して間口の狭い食堂や飲み屋、小商いが軒を連ね、路地を入れば東長寺と墓地、銭湯、床屋、古物屋、そして芸者衆でにぎわう二流の芝居小屋、公衆便所がある。そんななかにひときわ大きな家が建っている。四谷永住町2番地。いまの四谷4丁目22ー100ではある。そのお屋敷は鉄の門を備え、松や楓の植え込みがあって、石畳が敷き詰められ、厳かな玄関がある。二階建ての家には、広々とした洋間、書生部屋、女中部屋、祖父・定太郎ていたろうの部屋、仏間、台所、三つの便所、客人のための寝室が3つ、風呂、納戸、階段を上がれば、広々とした洋間、そして和室が三つ。なお、その家に祖父の定太郎ていたろうと祖母なつ(通称、夏子)、三島の両親、梓と倭文重しずえ、そして後に三島由紀夫を名乗るようになる公威くんが暮らす。そのほか女中が6人、書生と下男がひとりづつ。邸宅は道を隔てて市ヶ谷刑務所に面していた。平岡家は定太郎の零落によってこの地に流れついたのだった。



平岡定太郎ていたろうは、文久3年(1863年)生まれ。兵庫の片田舎の貧農の次男坊であり、忠君愛国の教育を受け、上京し、牛乳配達や書道塾の講師を務めつつ苦学して、東大法学部に入り、官僚になって、原敬内閣時代に樺太庁長官にまで登りつめた人物である。ただし、その樺太開発の任務のなかには阿片でカネをこしらえて原敬率いる政党に流す役目もまたあったらしい。ここには国家をマネージメントするという善と麻薬で裏金を作るという悪が密通しています。ところが、その裏金作りが発覚し、定太郎は潔くすべての罪を自分でひっかぶり、失脚した。後には山のような借金だけが残った。




定太郎の妻なつは絶望した。なつは明治9年(1876年)生まれであり、法律家であり大審院の判事まで登りつめた父親の娘であり、かつまた12歳から5年間、有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王邸に預けられた人であり、ひじょうにプライドが高い。とうぜん一気に没落した定太郎となつは犬猿の仲になってゆく。しかも平岡家は莫大な借金を背負いながらもしかしプライドの高いなつは派手な生活をやめなかった。そんななかなつに初孫の公威くんがさずかった。このときなつは49歳である。一族の女帝として君臨していたなつは両親から公威くんを奪いとって、独占的に溺愛するようになる。もはやなつの希望は初孫の公威くんにす託すほかない。この時期すでになつは情緒不安定で癇癪持ちの支配欲の強いの女になっていた。



プライドの高い祖母なつが四谷長住町のような猥雑で下卑た地に住まざるを得ない自分の境遇を呪わないわけがない。もちろんその呪いは伴侶の定太郎に向かう。三島の祖父と祖母は年中喧嘩に明け暮れる。もっとも、定太郎はどこ吹く風で泰然と碁を打っている。そんな境遇だからこそ、なつは自分はそして公威は高貴な血筋なのだ、と公威くんに何度となく語りかけたでしょう、ひんぱんに狂躁の発作を起こしながら。




なつは一階の部屋に暮し、公威くんもまたなつの部屋で軟禁状態で育つ。他方、父・梓と母の倭文重しずえは二階に暮し、なつが4時間おきにブザーを鳴らすたびに、息子に授乳になつのもとへ一階へ降り、授乳が終わるとまた二階へ上ってゆくのだ。



なつは公威に女の子の服を着せ、なつが気に入った女友達をあてがった。公威くんは女友達とままごと、お家ちごっこ、正月には羽根つき、双六、歌留多をして遊んだ。ちょっと大きな音を立てたり、おもちゃのうるさい音をさせたりすると、さっそく女中が飛んで来て、「おばあさまがお止しなさいとおっしゃっていらっしやいます」と注意された。同時になつは公威くんに文学の英才教育をほどこし、たくさんの本を与えた。公威くんが中学生になると歌舞伎に連れていった。



父・平岡梓は定太郎となつのひとり息子、母なつのいない隙を見てコドモの公威を連れて蒸気機関車を間近に見せてやったりする。公威くんは無表情だった。また、公威くんがが塀の穴から隣の庭を覗いて、男の子たちが相撲をとっているのを眺めている姿を見れば、父は公威少年と相撲をとってやる。とはいえ、それはなつが公威くんを溺愛した時期に挟まれたわずかなショート・エピソードに過ぎない。



倭文重しずえさんは二十歳で公威くんを生んだにもかかわらず、母らしいことをなにもしてあげられない。彼女の胸のなかはなつへの呪詛が燃え上がっていますが、しかし現実的には彼女はなつに従うほかない。もちろん公威くんも母の哀しみをわかっています。これについて後年三島は短篇『椅子』を書いた。もちろんこの作品もまた発表まえに原稿を倭文重しずえさんに見せているでしょう。なつの没後公威くんと倭文重しずえさんはまるで年の離れた恋人同士のように見える。だが、ほんとうにそうだったろうか? いいえ、それはまだ先の話です。



さて、かれが生れた1925年とはどんな時代だったろう? 大正モダニズムと呼ばれもすれば、モガ(モダン・ガール)、モボ(モダン・ボーイ)がかっこいい若者像を体現し、ジャズが流行し、ダンスホールが隆盛し、いまでいうガールズ・バーに相当するカフェがスケベな男たちを魅了し、浅草が輝く歓楽の都であり、出版文化が教養から、エロ、グロ、ナンセンスの娯楽に至るまでを提供したそんな大正時代が、しかし関東大震災でいったん灰燼に帰したとはいえ、それであってなおそんな華やかな都市文化はいまだ生きている、そんな時代だった。たとえば、1928年にはジャズ・ソングの”My Blue Heaven”が堀内敬三訳詞により『青空』としてリリースされ、ヒットし、この歌は榎本健一に歌い継がれ、愛されてゆきます。(なお、蓄音機とともにSPレコードは20世紀初頭から生産されています。)



他方、平岡家は転げ落ちるような没落への傾斜のなか、それでも祖母なつは贅沢な暮らしを辞めず、崩壊寸前の家庭にあって、父も母も公威くんに対してほんらいの役目を果たせない。公威くんはただひたすら祖母の部屋に軟禁されながら、祖母のおもうがままに育てられてゆく。わたしたちは高貴な血筋であるというむなしい幻想の物語を繰り返し吹き込まれながら。











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