美と政治の不吉な結婚。(三島由紀夫の右傾化について。)
まず最初に、三島にとって美とはなんだろう? これがさっぱりわからない。なるほど三島の文章は明晰で美しい。三島自身も自分の文章に誇りと自信を持っていた。戦中育ちの三島は戦時下に文学者として「美の特攻隊になる」と決意したものだ。いかにも日本浪漫派に庇護された、そして戦争に行かなかった三島らしい言い草ではあるけれど、しかし、日本浪漫派の信徒以外には意味不明の決意である。なぜなら、戦争はおぞましく、美はその対極にあるもの。美に特攻隊など要らない。ジャンヌ・ダルクとてけっして美のために闘ったわけではない。したがって三島の主張はグロテスクである。しかし三島は〈美しい悪〉というような修辞を使いかねない男である。(困ったことに)美の特攻隊もまたいかにも三島らしい自己規定ではある。
次に、三島の(文章以外の)あのけったいな美意識はなんなんだろう? 鹿鳴館じみた時代錯誤な白亜の豪邸。マッチョに鍛えあげた肉体。好んで着るようになったアロハシャツにジーンズ。(森茉莉さんが嘆くのも当然である。)美の信徒を自称する悪趣味な男、それが三島由紀夫である。三島が『仮面の告白』で掲げたドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の言葉を思い出す、「美という奴はおっかないものなんだよ。聖母の理想を目指して踏み出しながら、ソドムで終わる。理性の目では汚辱に見えるものが、感情の目には立派な美に見える。」いまにしておもえば、この言葉は三島の末路を予言しています。
ただし、ドストエフスキーのこの言葉は、キリスト教世界のなかでこそ筋がとおるものである。やおよろずの神々の国日本では聖母とソドムの弁証法は成り立たない。そこで後年三島は天皇陛下を召喚することになるのだけれど、しかし、それはまだ先のことだ。いま語るべきは二十歳以降の三島が生きた戦後は、GHQのギルティ・プログラムによって天皇陛下は人間宣言をさせられたことにはじまること。後年三島は『英霊の声』(1966年)のなかで、「かかる日に/などてすめろぎは人間となりたまいし」(あろうことかこういう時代に、どうして”すめろぎ”‐皇統であらせまするあなたが人間などにおなりになったんですか? こんな日にこそ神でいて欲しかったのに)という呪詛の言葉を繰り返すことになる。もっとも、もともと天皇は神話時代を別とすれば神を祀る神職の代表であり、三島が言うような天皇の神格化は明治維新を成し遂げたクーデター政権が自らの政権に正当性を付与するためにおこなったことなのだけれど。しかし、三島にとって天皇は神であってもらわなくては困るのだ。西欧キリスト教圏にGODがいらっしゃるならば、神国ニッポンには天皇陛下が君臨しておられる。この構図がなくては、三島の闘うロマンティシズムは成立しないのだ。ただし、戦後しばらくの三島は、けっして『憂国』以降、楯の会結成以降の三島ではない。むしろこの時期三島にとっては、敗戦よりも妹・美津子の死の方がよほど痛恨の出来事だった。三島は悲しみを乗り越え、なんとかして文壇に認められる作家になるべく奮闘し、そして『仮面の告白』で流行作家になりおおせた後は、戦後日本を冷笑しながら、戦後日本と楽し気につきあっているのだ。ここがまた三島のややこしいところである。
いずれにせよ、戦後日本は平和憲法を押しつけられ、大和魂は棄損され、真/善/美の規範が失われたでたらめな時代を迎える。なお、三島自身は戦中に召集令状を受け取りながらも即日帰郷となった身ながら、しかし三島の同級生や先輩たちの多くは学徒出陣で命を落としているのだ。三島はふがいなく屈辱的な戦後を内心深く呪いながら、それでも三島は(繰り返すけれど)戦後日本を冷笑しつつ、楽し気に戦後日本とダンスを踊り、たくさんの作品を書いたのだ。他方、まさか三島に戦後日本に対するそこまでの呪詛が潜んでいたことに誰も気づかなかった。やがて三島はロマンティックな美文を綴ることに飽き足らず、ボディビルで自分自身を美の化身にしてゆく。「おれを見ろ、おれが美の化身だ!」というわけである。もっとも、もしもあんなマッチョな筋肉ザムライがいたならば『少年ジャンプ』のマンガである。いいえ、本題に戻りましょう。
60年安保の敗北を、戦後日本の知識人たちの敗北と三島は理解する。この時期から(すでに三島の主観のなかで美の化身になりおおせた)三島の人生は転調する。
『憂国』(1961)
『林房雄論』(1963)
『喜びの琴』(1964)
『英霊の声』(1966)
『文化防衛論』(1968)
1968年、秋、楯の会結成。
こうして三島は〈文化的天皇〉を召喚し、天皇こそが戦中/戦後をつなぐものであるのみならず、古来から現在に至る日本文化の絆であるという主張を提示することになる。そして三島は文化防衛論をとなえ、それこそ日本を取り戻し、国防の一翼を担うべく楯の会を結成する。なお、この時期60年代後半は、ヴェトナム反戦運動、公害訴訟、沖縄返還問題などの反政府気運に押し上げられ、大学紛争が全国的に巻き起こった時期でもあった。東大、日大をはじめ全大学の約8割がバリケード封鎖を行っていた。
1969年5月、三島は東京大学駒場講堂で、東大全共闘との討論会をおこなった。右翼となった三島と左翼の全共闘の討論である。三島は決死の覚悟で、ヘルメットとゲバ棒、火炎瓶で安田講堂を占拠することに成功した学生たちの前に現れたのだ。三島は語った、「私はいままでどうしても日本の知識人というものが嫌いで嫌いでたまらなかった。思想というものに力があって、知識というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が。」「全学連の諸君がやったことの全部は肯定しないけれども、しかし、諸君が日本の大正教養主義からきた知識人のうぬぼれというものの鼻を叩き割ったという功績は絶対に認めます。」しかし、当時の三島がどうおもおうとも、いまになって見ればあの時代の学生運動はとうてい讃美されうるものとはぼくにはおもえない。いいえ、三島の主張に戻りましょう。
なるほど、右翼になった三島は、左翼の全共闘と、戦後日本を欺瞞の体制であると見なし、これを打破すべく闘うという点では見解を同じくしている、と主張するのだ。そして三島は言う、「諸君がもしも天皇陛下万歳と言ってくれたなら、共闘できるのに。」この討論会は意外にも平和裏に終わった。しかし、すでに三島は自決を決意しているのだ。
次に、なるほど三島の政治的主張は三島なりに筋が通ってはいる。しかしながら、これを政治的主張のみとして理解することもまたできない。野口武彦著『三島由紀夫の世界』(講談社刊1968年)に導かれつつぼくはおもう、むしろ闘うロマン主義作家三島はもはや作品を書くことだけには満足できず、いわば堪忍袋の緒が切れて行動する政治的ロマンティストに打って出たのだ。すなわちそれは、美学的政治行動である。しかし、ほんらい美と政治は別の審級に属している。歴史に類例を求めるならば、政治の美学化の先人は、ナチス・ドイツ率いるヒットラーである。だからこそ三島は『わが友ヒットラー』を書いた。
ぼくはこの時期の三島のロマン主義的政治行動にはまったく共感できないけれど、それはそれとして、どれだけマッチョな肉体を誇ろうともすでに老眼がはじまっていてもおかしくないそんな40代を迎えた三島にとって、文学関係者でもマスコミ関係者でもないごく普通の青年たちとともに訓練し、同じ釜の飯を喰い、志をともにしたこの時期はさぞや幸福だったことでしょう。三島にとってそれは貞子さんと恋愛した3年間とともに、人生最良の時期だったことでしょう。
なお、武士がみずからの意志で切腹する、なるほどそれは江戸時代には名誉の象徴ではあったでしょう。しかし、昭和後期にあってはグロテスクな時代錯誤になるほかない。たとえどれだけその瞬間マゾヒスト三島が喜悦に震えたにせよ。しかも、いうまでもなく三島の自決は傍迷惑なものであり、人々の度肝を抜いたものの、同時に嘲笑にさらされもした。もちろん政治的にも無力だった。しかし、三島とてそんなことは先刻承知のことなのだ。三島はただかれの生涯を貫く、闘うロマンティシズムに殉じたのだった。なお、ロマン主義とは物質世界への深い軽蔑とともに、向こう側の世界へ身を置きながら、現実世界を見下ろすもの。すでにそのまなざしは『美しい星』(1962)のなかにあり、それは『豊穣の海』4部作(1965~70)に結実する。
三島の右傾化と並行して書かれた『豊穣の海』4部作、そのタイトルとは月の裏の海のことである。「海」と名づけられてはいるものの、太陽に照らされてほのかに輝く月の、なにもないただの窪みである。三島ファンはこの4部作を(とくにその結末を)涙なくしては読めない。しかし、あの作品はけっしてセンチメンタルに読めばいいというものではなく、むしろ三島の霊界との命懸けの交流の記録なのだ。そして三島は霊的国防の必要を訴えて自決したのだ。ただし、その裏には三島の〈女〉への敗北と、自分の作家人生は無駄だったのではないか、という苦い認識がある。
余談ながら、村上春樹は『羊をめぐる冒険』の冒頭で三島の自決の日を描いています。「1970年11月25日のあの奇妙な午後を、僕は今でもはっきりと覚えている。強い雨に叩き落された銀杏の葉が、雑木林にはさまれた小径を干上がった川のように黄色く染めていた。僕と彼女はコートのポケットに両手をつっこんだまま、そんな道をぐるぐると歩きまわった。落ち葉を踏む二人の靴音と鋭い鳥の声の他には何もなかった。」
なぜ戦後アメリカン・デモクラシーの申し子のような村上春樹が『羊をめぐる冒険』の冒頭に三島の自決の日を選んだのか? そこには春樹さんが〈羊〉のモティーフに託した意味の一端が隠されています。三島の同時代人は誰だってあの日なにかを感じ、その記憶を忘れることはできないのだった。なお、春樹さんもまた霊性をそなえた人で、たとえば『ノルウェイの森』は霊界との交流を描いたものとして読むとき、はじめて月の光のように輝き出す。
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