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童貞の三島青年は、モテモテ太宰に嫉妬した?

あるジャンルの二巨頭を立てて、対立させて、おのおのの支持者が論戦をくりひろげる。よくある遊びである。たとえば美術好きならば「マティスとピカソのどちらが好き?」という質問をしたくなるものだ。クラシック・ロック・ファンは、ビートルズ派かローリング・ストーンズ派かで互いのロック観を競い合う。同様に日本文学読みは、「太宰と三島はどちらが偉いか」言い争ったりするものだ。なお、この土俵は三島がしつこく表明した太宰嫌いがきっかけになっています。二巨頭対決など他愛ない遊びではある。だって、どちらにせよ他人事、褒めようが貶そうが自分が大芸術家やロックンロール・スターになれるはずもない。むしろぼくの関心は、「果たして三島の太宰嫌いは額面どおり受け取っていいものかしらん?」である。




なるほど太宰と三島では人間のタイプが違う。太宰は落語好きであり、三島は歌舞伎好き。太宰が女好きであるのに対して、三島は女性との失恋を契機に男色者を標榜して脚光を浴びた。小説の書き方も、太宰はパフォーマティヴな語りであり、三島は理知と観念で構成する(いくらか修飾過多な)規範的散文で攻める。したがって、三島の太宰嫌いもわからないではない。しかし、三島の発言はおおむね正直だけれど、要所要所で嘘をつく。そして嘘をつくときにこそ三島の本音がバレる。三島の太宰嫌いもまたその本心はいくらか怪しい。




敗戦後なかなか酒も手に入らない時代、1946年12月14日夜、中野駅からバスでしばらくの先にある豊玉中とよたまなかでおこなわれた、酒好きの太宰治の酒席に、日常的に酒を飲むという習慣を持たない東大生作家・三島由紀夫も参加し、生涯一度の対面を果たした。太宰主役の酒席ゆえ、三島も着物ででかけていった。着物に帯を締め、羽織をはおって、雪駄でも履いていったことでしょう。(なお、この酒席には亀井勝一郎も混じって、総勢11名が集った。)ひさしぶりにホンモノの酒が飲めるうれしさは、酒飲みにしかわからない。酒のにおいを嗅いだだけでも瞳孔が開き動悸が高まる。喩えるならばそれは最愛の恋人との待ち焦がれた再会であり、太宰のみならず多くの参加者たちにとっては、熱い抱擁の場面である。ふだんはともあれいまこの時は文学なんぞ知ったことか、一升瓶のなかに女神が降臨しているのだ。当時太宰は37歳の人気作家、他方、三島は21歳、東京帝国大学法学部の学生で、さほど有名でもなく、太宰もその存在を知らない学生作家だった。さて、宴たけなわのこの席であろうことか三島は太宰に向かって言ったのだ、「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです。




なんだ、この若造!?? 楽しい酒席はどっちらけである。なんて無粋な奴なんだ。どこの馬の骨ともわからないおまえごときが太宰を好きだろうが嫌いだろうが知ったことか! しかも、大事な酒がまずくなるじゃないか! 一同の胸に不快の炎が燃え上がる。野原一夫『回想 太宰治』(1980年)によると、太宰は顔をしかめてこう言った、「嫌いなら、来なけりゃいいじゃねえか。」他方、三島は『私の遍歴時代』(1963年)で太宰にこんなせりふを重ねている、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ。」太宰がほんとうにこう言ったのかどうかは杳として知れない。



その後三島は『仮面の告白』で人気作家になり『禁色』も書いて男色二部作を上梓した。1955年世界旅行でギリシアの陽光と海、健全さに感動し、帰国後『小説家の休暇』を書いた。そこで三島は(没後7年になる)太宰についての心情を吐露する。「私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない。」「太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。」なお、最後の一行は、三島には自分が病人である自覚があって、健康になろうという意志があるという主張である。この正確な自己理解にぼくは感心する、三島による太宰批判についてはともかくとして。




さらに三島は1963年太宰の没後15年経って『私の遍歴時代』のなかで冒頭で触れた太宰との生涯一回の面会について書いた。「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです。」いやはや、三島の執念深さがよくわかる。すでに三島はボディビルで鍛え上げたマッチョマンになりおおおせ、健康崇拝が著しい。おそらく三島は、自分のマッチョ思想を際立たせるために、太宰を女々しく病んだ文学者の代表として召喚し、否定してみせたのだろう。どちらがかっこいい文学者かみなさん比べてみてください! はやいはなしがこれは自己宣伝であり、比較広告である。



しかし、三島読者は三島の深層心理を知っています。三島は自分が愛する人から愛されることを切望しながらも、同時に自分と相手が平場に立って、愛情関係を築くことが恐ろしいのだ。すなわち、三島は自分に愛する能力が欠けていることを自覚しています。それを自覚しているのなら、他人を愛する能力を育てればいい。かんたんな(?)ことである。しかし、三島はそれもまたプライドが許さないのだ。したがって三島の孤独は運命づけられています。三島は嫌々ながらそんな自分の孤独な人生を受け入れてはいるものの、しかし、太宰のように誰かれかまわず恋愛関係を成立させてしまう男を見ると、猛然と嫉妬の炎を燃やしてやまないのだ。




しかも、おもいだして欲しい。三島が生涯一度だけ太宰と会ったのは、後に『仮面の告白』であきらかにされるとおり、作中で描かれる園子さんとの恋愛が破綻し、童貞三島が絶望にのたうちまわった時期なのである。三島の嫉妬の炎はめらめらと燃え上がる。黒マント姿を気取る女たらしで金歯まじりの酒臭いオヤジがモテモテで、(いまのところ評価は限定的ながら)美青年天才作家のおれがちっともモテないなんて世の中間違っている。太宰の狂おしい享楽慾。女のような虚栄心。そんな太宰をもてはやす節穴の目をした世間。あんな悪徳の権化のような太宰に引っかかる女も女だ。女はいたるところに生存していて、夜のように君臨している。その習性の下劣さはほとんど崇高なほどである。女はあらゆる価値を感性の泥沼に引き下げてしまう。なんという失楽園だ。できることならば太宰に毒でも盛ってやりたいものだ。いいか、よく聞け、おれを甘く見るなよ。おれには殺人者の血が流れてるんだ。ーー当時の童貞三島の本心をぼくはそのように邪推する。これだけの超ド級の憤怒を凝縮した一言が「ぼくは太宰さんの文学は嫌いなんです」なのである、ぼくの見立てによると。なお、この一段落は、ぼくがイタコとなって霊界から降りて来た三島の魂の憑依によって表現されたものです、念のため。




他方、太宰にとっては三島のミの字も知らなかったのだからとんだ災難である。文学者とはどこから厄介事が飛び込んでくるかわからない命懸けの商売なのだ。なお、太宰は三島についてなにひとつ書き残さなかった。太宰にとって罵倒せずにはいられない悪人とはあくまでも志賀直哉と井伏鱒二であって、若造の三島など悪党のうちにも入らなかったのだ。ただし、だからと言ってけっしてぼくは太宰の方が三島より偉いなどという幼稚な議論に組する気はない。どちらが偉かろうが偉くなかろうが、そんなことはどうだっていいことだ。




なお、三島のこの手の嫉妬には類例がある。三島は松本清張を嫌い、三島存命中は松本清張を文学全集のなかに入れることを絶対に許さなかった。なぜか? 三島はなにを書いても観念的になってありのままの現実をつかまえられない、三島自身もそのことに自覚があり、忸怩たるおもいを抱いている。他方、松本清張は貧しい家に育ち、苦労を重ねながら世間に揉まれて育ち、尋常小学校卒の学歴で、下働きの職を転々としながら、文学への夢断ちがたく、泣く子も黙るベストセラー作家になった人である。なにせ苦労人育ちゆえ、なにを書いても生々しい現実を描き切る。はやいはなしが三島は松本清張にもまた嫉妬したのだ。なお、この話は橋本治の名著『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社刊)に書かれています。



公平のために書き添えるならば、三島は面倒見のいい人でもあった。青春の乱暴者だったデビュー当時の石原慎太郎を評価し、北杜夫の『楡家の人びと』に「戦後もっとも重要な小説のひとつ」と跋文を寄せ、野坂昭如の『エロ事師たち』をアメリカの版元に紹介し、亡くなった父・鴎外への愛を縷々書き綴ってやまない永遠の美少女・森茉莉さんを一貫して庇護した。しかし、そんな三島はああ見えて嫉妬深い男でもあった。そんな三島をぼくは好きだ。






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