辞書と〈女〉。
三島由紀夫にはまってしまって、三島について文章を綴るようになって、おのずとぼくは戦中育ちの精神構造に興味を持つようになった。そしてぼくは明治末~戦中にかけての辞書『言海』およびその発展形『大言海』を使うようになった。なぜなら、他の辞書たとえば『大辞林』『広辞苑』『新明解国語辞典』はたまた『辞林21』はそれぞれ個性を備えた魅力的な辞書ながらしかしすべて戦後作られた辞書であり、したがって戦前精神を知るためには役に立たないから。
たとえば、謎という語を『大言海』で引いてみると、こんな語釈が現れる。謎とは御所車、卵、中に黄身(きみ)がある。なお、ここで言う「きみ」とは天皇陛下のことなのである。ぼくは驚き、仰天した。こりゃ、大変だ。國體(=国体)を引いてみると、日本国家を支える精神的支柱、かみのみち、やまとだましいのこととある。はたまたいまここで使っている一人称の「ぼく(僕)」は、ヤツガレ、拙者の語釈であるものの、別項ではシモベ、シモオトコ、下男なる説明も併記されています。こうなってくると気になる言葉は片っ端から『言海』に当たりたくなってくる。戦前/戦後では、日本語そのものがその意味がここまで違っていたとは、ぼくは考えもしなかった。
女という語を引いてみよう。「をみな」の音便。をうな、女、メノコ、婦人、女子、女人とある。なお、「をみな」をその名に宿す花は、をみなへし、すなわち女郎花である。ぼくはこの命名がよくわからない、なぜって女郎花はその名にもかかわらず、野に咲く可憐な草花ではないか。もっとふさわしい花がいくらでもあるではないか、たとえば牡丹、蘭、ダリア、ラナンキュラス、チョコレート・コスモス・・・。いや、万葉集や古今集の時代にはなかったか。いずれにせよ、かの時代には「をみなへし」こそが美女の象徴として咲いているのである。むかしの人の感受性はわからないものである。それともいまだぼくは〈女〉の幻想に囚われているのだろうか?