『酸模(すかんぽう)』は、三島版『ミツバチのささやき』だ。
『酸模ー秋彦の幼き思い出』。三島由紀夫の本名は平岡公威で、この短篇小説は公威くん時代のもので、かれは14歳、学習院の中学2年生のとき、これを『学習院輔仁会雑誌』に発表した。いまでは『手長姫 英霊の声 1938‐1966』(新潮文庫2020年刊)に収められています。
こんなな物語である。6歳の少年秋彦くんが、酸模が咲き乱れる丘で、脱獄囚と出会って、ほのかな友情めいた関係を持つという話である。ぼくは推理する、公威くんは(中学生で歌舞伎好きになるに先だって)小学生時代は大の映画好きで、1931年のアメリカ、モノクロ映画『フランケンシュタイン』を見ていて、『キング・コング』と並んで、またオペレッタ映画『会議は踊る』そのほかとともに大好きだった。(『三島由紀夫映画評論集成』ワイズ出版 1999年)映画『フランケンシュタイン』では博士が死体を寄せ集めてこしらえた怪物が、博士のもとから脱走し、湖のほとりで少女と遭遇した。あどけない少女はこころよく怪物に心を開き、彼女はデイジーの花を摘み、積んだ花を湖に投げて遊び、彼女は怪物にもそれを促した。少女と怪物にささやかな交流が生まれる。それを愛と呼んでもいいでしょう。ところがなにをおもったか次の瞬間、怪物はいきなり少女を抱きかかえ、池のなかに投げ込んで殺してしまう。いいえ、14歳公威くんによる『酸模』は、いささか趣きが違う。こんな話だ。
6歳の秋彦くんはむかしから灰色の家(刑務所)には近づいてはいけないと言われてきた。しかし、ある晴れた日ついつい青空に誘惑され、野花の咲き乱れる森のなかへ入ってゆき、青空に向かってボールを投げたりして(いまなら小鳥と話すことさえできそうなほど)自由を満喫する。すでにそこは刑務所に間近な場所である。あっというまに日は暮れ、秋彦くんは道がわからなくなって泣いてしまう。
そのとき、誰かが秋彦くんの肩を叩いた、「どうしたんだ坊ちゃん」。秋彦くんはおもった、かれはまるで「大地が割れて火柱が立ったようで、その火柱のなかから恐ろしい悪魔が出て来た」ようだった。しかし、秋彦くんの当惑をよそに、男はしゃべりはじめる。「俺にも子供があったよ。ちょうど坊やみたいなかわいい子だった。だが、いまは・・・」
明彦くんは訊ねます、「いまはいまはどうなの?」
「広い広い海原を鴎になって飛んでいるんだよ。波のあいだに、ひらひらと、魚の鱗の銀色が光るのを見つけて、その鴎はな、水のなかに首だけ突っ込んで言うのだ、『夕霧の鉛色した海の上で、私は殺された。殺した奴は、暗いくらい海の底へ沈んでいった。だがそやつの浮き上がるまで、わたしはこの白い翼で、雲の低い空に浮かんでいなければならない。』」
読者はびっくり仰天する、わちゃー、このおっさん息子殺しの殺人犯やんけ!!! 脱獄犯やんけ。このおっさん、なに美文使こて、自分の犯した極悪犯罪を美化してんねん。秋彦くん、こんな危ないおっさんと仲良うしたらあかんで、次は秋彦くんが殺られるで。秋彦くん、はよ逃げ! 全力疾走で!
しかし、作者の公威くん14歳は、そんな読者の気持ちをもてあそびつつ、殺人犯の秋彦くんへの語りを記述する、「ところがその哀れな哀れな鴎を殺した奴は、自分の浮かぶ道を見つけたんだ。」
もちろん読者は呆れる、「なに他人事みたいに悠長に語ってんねん。おっさん、おのれ自身のことやんけ」しかし、そんな読者のツッコミなど聞こえないフリをして、公威くんは男に語らせる、「その道を見つけさせてくれたのは、誰だとおもう。ー坊ちゃん! おまえなんだよ(・・・)刑務所へ帰ろう。」
そしてこのおっさんはせっかく脱獄したというのに、しかし自らの意志で刑務所へ戻るというのだ。その別れのまえにかれは秋彦くんと誓いを交わす、「出所はたぶん1年も後のことだろう。坊や、迎えに来てくれるかい?」
秋彦くんは答える、「行くよ! 秋ちゃんはおじさんのことが大好きだから」
もちろん刑務所の関係者は驚き呆れる。なんでまたおまえはせっかく脱獄したというのに、みずからの意志でふたたび刑務所に戻って来たのか???
他方、息子殺しのおっさんと別れた秋彦くんのもとに母親がやって来て、秋彦くんは母親にさんざん叱られる。「なんですか、囚人なんかにさわって、まあ汚いこと。汚らわしい。」明彦くんは酸模の花を握っていたのだけれど、しかしそれも母親の叱責によって、捨てさせられる。夕陽が酸模を赤く赤く燃やす。
さて、時が経って、秋彦は大人になって故郷に戻って来て、酸模が咲き乱れる丘に立った、刑務所はいまも灰色である。ちいさな墓標が立っている。そこには何十年まえのあの男の名が刻んである。だが、秋彦はもう忘れていた。酸模が咲いている。
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いやぁ、実に見事な短篇だけれど、われわれ読者は数々の疑問を抱くでしょう。なんでまた6歳の(満年齢なら5歳の)秋彦くんは、息子殺しのおっさんに共感するの? その共感って、著者の公威くんもまた家庭という名の刑務所に閉じ込められてるっていう絶望があるんでしょ? 囚われ者同士の共感でしょ? しかも、この小説のなかでのおかあさんの描かれ方も、まるで家庭という名の刑務所の番人みたい。公威くんの境遇になぞらえるならば、おばあさんのなつはともあれ、おかあさんの倭文重さんとは恋人同士みたいに仲良しじゃなかったの??? いいえ、ほんとうはそうじゃなかったんですねぇ。泣ける!
次に、秋彦くんは幼児の設定で、14歳の作者・公威くんは、秋彦くんをいかにも親好みの無垢な良い子として描くことが巧いこと! 公威くん自身がそういう哀しい男の子だったんですねぇ。しかし、おそらく公威くんは叫んでいます、自分は親に殺されるくらいならば、ぼくは息子殺しの犯罪者になってやる! もっとも、読者はツッコミを入れるでしょう、きみまだ14歳やん。殺すも殺さないも、きみに息子なんておらんやん!
おもえば三島は何度となく言っていたもの、「私には殺人者の血が流れてる」、もちろんこういう言葉は小説家特有のハッタリに聞こえるものの、しかし、公威くんの気の毒な育ちをおもえば、あのせりふは前述のような意味で、切実な本音だったのだ。
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