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何もない休日。

これといった予定のない休日を
無為に過ごしてしまうのがもったいなくて。
夕方近くになって、ああ、何もしないままで
今日が終わっちゃうんだなと思うと、
こころのなかの小さな子どもがぐずりだす。

掃除をした。
毛布をベランダに干した。
近くの公園をぐるりと散歩した。
それから簡単な食事を作って遅い昼食をとった。
午後は珈琲を飲みながら本のページをめくった。
ほら、それなりに活動はしてたじゃん。
と自分を誤魔化しても、私は気づいている。
たとえば絵日記の最初の一文の
『今日はおじいちゃんちの畑に行っておいも堀りをしました』的な、大義名分がほしかったのだ。



10代の頃、空の遠さと広さを見上げては、
未来は無尽蔵にある!と思っていた。
1日くらい何もしない日があっても、
明日には挽回できると信じていた。
10年後の自分の姿には靄がかかっていて、
はっきりとした輪郭など知りようもなかった。

10年後?

どこで何をして誰といて、
何を信じているのかなんて、
わからなすぎて笑ってしまいそうで。
曖昧に「たぶんまだ生きてる」と
予想するのが精一杯だったはずだ。

だが生きてきた年月は、
いつのまにか未来日数を
追い越してゆくことになる。
まだ大丈夫なんて思っていても、
時間は容赦なく人の上に無常をふりまく。
大人になって歳を重ねるにつれて、
これまでとこれからとでは
これからの方がどんどん短くなってゆくのだ。
気づかなかったでしょう。
日々はあまりにも忙しなくて、
時間はずる賢く
じわじわと人生を侵食していくから。
あ、と思った時にはもう、
長すぎた昼寝みたいに
いちばん明るくよい午後を過ぎてしまっている。
今日を「なんとなく」過ごしていたことに
罪悪感を持ったりするのだ。
そんな日があったっていいんじゃない?と、
思おうとする一方で、
そうかなあ?
休日を無駄使いしたんじゃないのかなあ?
と、ぼんやり後悔もする。
だが窓の外はすっかり夜で、
空では早い星が瞬いている。



今までと同じだけの熱量で、
最後まで走り切ることができるわけじゃない。
快調だった足取りや呼吸が
やがては重く苦しくなっていくように、
人生においても、
だんだん体がいうことをきかなくなって、
できることが足りなくなって、
脳みそも感性も年をとっていく。
そう、感性も年を取るのだ。怖くないですか。
体のことよりも、感性が衰えることの方が
私は怖いと思う。
好きな色の服にときめかなくなったり、
音楽を聴いても心が跳ねなくなったり、
満月が昇る瞬間に居合わせたことに
喜べなくなったり、
晴れた日の海に
キラキラ反射光ダイヤが浮かんでいるのを
ただ眩しいだけと思ってしまったりとか。
鈍くてコチコチに固まった感覚が
当たり前になって、諦めてしまうこと。
私にとってはとても怖いことだ。
そしていちばん悲しいのは、
それに慣れてしまうことだと思う。
感性を錆びつかせないためにも、
この先も心のなかの小さな子どもの声に
耳を澄ましていこう。

昔観た映画をリバイバルでもう一度観て、
当時と同じ心の揺れを感じられなくてもいい。
その代わり、10年前とは違う見方をしたり、
当時は気づかなかったことを発見できる
自分でありたい。
これまでの経験は、
まったくの役立たずでもないというわけだ。
知見は世界を広げる。I think so.



今日は何もしなかったといっても、
こうして文章を書いたのだから、
上出来だと思うことにしよう。
あるいは何もない休日は、
贅沢な時間なのかもしれない。
とりあえず今夜の夕食を全力で作ることを
ここに誓う。

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鈴懸ねいろ
文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。