映画感想文#1 ロボット・ドリームズ(2024)
※本稿ではネタバレを含む感想を綴っております。
ご自衛ください。
画像の引用は映画.comさんより
映画の紹介はそちらも併せてご覧ください
4月に観た『ロボット・ドリームズ』の予告編で流れていた「セプテンバー」。
キャッチーなリズムが耳に残り、あの頃TikTokでみんなが踊っていたことをふと思い出す。
季節は巡って11月。前情報はあの時見た予告のみ。犬とロボットがほんわかとした雰囲気で登場し、セプテンバーが流れる映画だと、そんな風に思っていた。
でも、いざ映画が始まると、いきなり画面に現れたのは、テレビの明かりだけで生活し、レンジで温めたマッケンチーズを食べる、犬。(以下、ドッグ)
あれ?これ、いつもの私?と思った瞬間、
彼の前に現れたのは通販で購入した組み立て型のロボットだ。そのロボットは、思っていた以上にリアルにロボットで、なんてったって組み立て式なのに、某国民的猫型ロボットのように「ロボットを連れている」感も全然なく、''友達''として馴染んでいる。
よくみるとその街には、さまざまな動物たちが溢れていて、まるで多様性の象徴のよう。ロボットの存在が自然に感じられるのは、それのせいなのかも。
画面の多様性の新しさに見惚れる反面耳に飛び込むBGMはどれも懐かしい。
まるで1990年代のニューヨークの街角に迷い込んだような感覚になっていると、なんと、ツインタワーを見つけた。「ああ、ここはきっと、あの時代(〜2001)のニューヨークなんだな」と確信に変わると同時に、形容できない気持ちがぐっとこみ上げてきた。
そう思っているうちに映画内の時間はあっという間に過ぎていく。ロボットは海水浴場で遊びすぎた後錆びつき、動けなくなってしまう。
そのとき
「うまくいく、どうにかなる、きっと大丈夫」という視聴者補正マシマシならではの希望を抱かずにはいられなかった。
だが、その希望は次第にそして丁寧に打ち砕かれていき、ドッグはロボットを思った行動でついに拘束までされてしまう。
私は思わず叫んだ。
「ちょっとは融通きかせてよ!取り残されてるんだよ?!ビーチあけてよ!!!!!!!」
と。映画館の中で駄々をこねるわけにはいかないので、心の中にとどめたが。
ここで大きな過ちに気づく。
タイトルをみて、この映画はタイトルからロボットがドッグとの楽しい日々を夢見ているのだろう、
あるいは、自我が芽生えて反乱を夢見る…?
なんと思っていたのは大間違いだ。
誰か私の浅い考えを恥じる代わりにひっぱたいてほしい。
実際にはロボットが抱える夢の本質は、ドッグがもう二度と戻らない場所に行ってしまったという現実の重さを孕み、それでも一縷の希望に縋り、彼と過ごしてきた楽しさをなぞりながらも現実を伝える厳しい夢じゃないか。しんどい、しんどすぎる。
しかも、ドッグもまた、海開きまでの間に新たな仲間と趣味を見つけようとするも、何一つうまくいかなのだ。
ロボットがいればなあ、うまくいかないたびに、思わずそこに縋ってしまう。
その姿に、ただただ胸が締めつけられた。
かくいう私も多趣味な割に人付き合いが苦手なタチなので、重ねずにはいられなかったのだ。
ロボットがオズと魔法使いになぞられた夢を観始めた頃、「もうやめてくれ。どうか二人を幸せにしてくれ」と、また画面に向かって叫びたくなった。
何回叫びたがるんだ私の心は。
はあ、何がこんなに辛いって、ロボットがドッグを思う気持ちに、創造される夢に、憎しみや怒りが一切ないこと。どれだけ時間が経っても、ロボットはただひたすらにドッグとの思い出を大切にして、彼を待ち続ける。
夢の中で新しいロボットがドッグと歩むことになってたときも、その心には悲しみこそあれど一切の恨みや反発はなく、彼は身を隠してさえいた。
その健気さに対して苦しくなったが、なんて美しいんだろう、とも思った。思い出の中で生きることが、こんなにも美しいなんて。
私も、ロボットのように心から誰かを思いたい、と思っていると、彼も思い出にしがみつかないと耐えられない気持ちと現実があるのではと言う真理に辿り着いた。しんどすぎやしないか?
止めてくれ。と思いつつも劇中の厳しい現実は止まっちゃくれなかった。
あのロボットとドッグなら、きっとお互いを幸せにしてくれるだろう。再開するだろう。早く、早く7月を!
そう思う私をよそに、ロボットはあれよあれよとスクラップ置き場で解体されて捨てられていった。
ひどく心が痛んだ。後もう少しだったのに。
こんなのってあんまりだ!
そう思う気持ちとはよそに海開き直前に忍び込む金品コレクター。いないとは言い切れはいおろかその描写はすごくリアルで、かえってそれがもどかしかった。
そんな時に現れたのが、ラスカルおじさん。
彼に対する第一印象は、ロッカーに書いてあるラスカルという字を目にした時の「あらいぐまラスカルって、ラスカルラスカル/あらいぐまあらいぐまってこと?!」というあまりにも劇中とは関係ないものだったが、まあ、許してほしい。
さて、話を戻すが彼がスクラップ置き場でロボットの頭部を見た表情に気づいた瞬間、私はこの映画の中で初めて安心した。
ああ、やっと、どうにかなりそう。
ラスカルおじさんがロボットを理解し、ぎこちなく歩くロボットの足を見てどんどん改良を重ねる姿は見ていて本当に心が温かくなった。
その頃ドッグもまた、新しいロボットと出会い、少しずつ新しい生活を歩んでいた。
よかった、よかったね。
ロボットがドッグに気づいてセプテンバーを流すシーンはまさに、そんな最中で訪れた。
耳馴染みのありすぎる曲を聞いて、ドッグは思わず立ち止まる。
ふと一点を見つめた後、やがて慣れた動きで踊り出す。
ロボットはそれに気づいて、身を隠す。
声をかけたらば、ハグをしようそうイメージするほどの思いを抑え、ドッグの未来のために、身を隠す。
その瞬間、私は胸がいっぱいになり、思わず涙がこぼれそうになった。
何が私をそうさせたって、このシーンから二人の未来に馳せる思いの中に負の感情がないことが伝わってきたから。
会いたい気持ちはありながら、お互いの幸せを尊重し、どこまでも優しく思いやりのある姿勢が美しい。
だけど、私は未熟な人間だから、そんな彼らを見ているうちに、自分の心の中でどこかに「どうして?!」という気持ちが湧いてきてしまう。
私がドッグだったら、拘束されるまで行動を起こして、7月に1番に海水浴場に足を運んだことを釈明したくなる。他の誰かと歩いていくのを見るのは辛くなるだろう。
そしてもし私がロボットだったら、どうして迎えに来てくれなかったのか、捨てられたのか?!隣にいるロボットは?!?!?!?!?!?!?!と考えてしまいそう。いや、絶対考える。
書きながら、ああ、なんて稚拙なんだろうと恥ずかしくなる。自分の中の醜い感情は、彼らの美しさに対して浮き彫りになったが、それほどまでに2人の互いを思う気持ちは美しい。
彼らのような潔さを持てたら、きっともっと素晴らしい人間になれるだろうと思ったし、それが相手を思う気持ち故の潔さということだともよくわかっている。
今の私がその域に達するのはまだまだ無理だ、ということも。
映画を見た後、もう前までの気持ちでセプテンバーを聴くことはできないだろうな、と思いながら、セプテンバーを流した。
___Do you remember?
とイヤホンが軽快なリズムに合わせて言葉を紡ぎ出した頃、ポスターの2人の影が別方向を向いていることに気がついて、堰を切ったように泣いてしまったのは、また別のお話。