体験が感情を作る瞬間。
小学校の運動会があった日の夜だった。湯船に浸かって身体と気持ちがほぐれたのか、娘は思い出したかのように、かけっこのことを話し出した。
自分の心地よさを優先するマイペース気質の小1の娘と、とにかく「俺が俺が」タイプの小4の息子。
「授業中、常におしりが浮いていますね。積極的なのはいいんですけどね」と、個人懇談の際に、苦笑混じりに担任の先生から言われる元気印の息子とは対照的に
人のペースではなく自分のペースを守って1つ1つの動作を丁寧にやる娘。安定感があり、穏やかに見えるのか、まるでご当地キャラのようなゆるい愛おしさを感じさせる。
そんな娘だから、順位や勝ち負けを気にすることはないのだろうと思っていた。
でもそれは間違った認識だった。
前日の雨降りの影響が残る湿ったグラウンドと薄曇りの空。
砂埃は立たないし、日焼けの心配をすることもない、現実的な運動会日和の日だった。
スタート直前まで私に向かってニコニコと手を振る娘に、私も笑顔で手を振り返す。
いざ走り出すと、4人で走るかけっこで、娘は4位だった。
スタートが少し遅れてしまい、最初から最後まで前の子を抜くことができなかった。
最後まで力を緩めることなく走り切っていたし、笑顔でゴールしたように見えたので、親としてはそれで十分だった。
去年の保育園の運動会では、「やっぱり年長さんともなると頼もしいなぁ」なんて思っていたのに、小学校の校庭で上級生と並ぶとその小ささと幼さに驚いてしまう。
そんな子たちの競技なのだから、「何をしても可愛い」というフィルターがかかってしまうのは仕方ない。
大玉と並走、もしくは勢い余って抜かしてしまうような大玉転がしも、蛍光グリーンの旗を両手に持って、飛び跳ねるように動く創作ダンスも、ただひたすらかわいらしく、鼻の奥がツンとしてしまう瞬間もあった。
だから私の脳内では、かけっこ4位は、「頑張った運動会の一要素」でしかなかった。
お風呂の中で娘は泣いた。
「悔しい」という言葉をまだ知らない娘は、自分のコトバであのときの感情を伝えてくれた。
お風呂の中で、水滴と涙が混ざり合った顔を自分の手でぬぐいながら、「がんばったのに…」と話してくれた。
私は反省した。
娘の感情をちゃんと汲み取ってあげられてなかった。
感情はのっぺりとした平面的な絵ではない。もっと立体的で複雑で、単色では表せないものだと、改めて気付かされた。
楽しい
悲しい
悔しい
嬉しい
そうやって一言で表現できる気持ちなんてないのに、自分のこの気持ちがどの言葉に当てはまるなんて、大人だってわからないことがあるのに。
感情という絵の具は、ところどころで混ざり合ったり、濃淡があったり、上書きされたりする。
それをどんな風に感じ、捉えるのか。どんな風に表現するのかは、自分がどんな環境にいるか、どこにフォーカスするかで変わってくる。
それなのに私は「まぁ、かけっこでは4位だったけど、他は楽しそうだったし、いい運動会だったよね」という、ありがちな大人の見方で終わらせようとしていた。
たかが学校の運動会、たかが子どものかけっこだけど、まだ小さな世界で生きている娘にとっては、それが全てで大きな経験なのだ。
そのことに気づかせてくれたのは、「悔しい」という言葉を知らずとも、自分の気持ちを自分の語彙で伝えようとしてくれた娘の姿だった。
言いたいことや感情を吐き出して、気持ちが落ち着いてきたのか、うわずった声のトーンも通常モードに戻ってきた。
なんて声をかけようか考えて私はこう伝えた。
秋のせいか、少し乾燥してきた娘の背中を撫でる。
そう伝えると、娘はようやく口角を上げてくれた。
自分のコトバで自分の気持ちを伝えたい。それはきっと誰もが持っている切実な思い。
だからこそ、伝わったとき、受け止めてくれたとき、癒される。
癒されるから経験にできるし、次に進める。
そうやって、体験が感情を作り出し、言葉を学びながら、人は成長していくのだと思ってる。