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旅の続きは記憶の中で。フィンランドの湖にダイブする。

終わってしまった。
5日間の旅が。


出国直前。



たったの5日間だったのに、
何がそうさせるのか。


私は今、飛行機の中で泣いている。





こんなにも涙が溢れてくるのは、

帰りの便の席の隣には、誰もいないせい?

旅の締めくくりにと、赤ワインを飲んで酔ったせい?

「君の名は」を見て、感動と安堵でほっとしたせい?

それとも

この時間が終わってしまうのが、悲しくて、寂しくて、でもどこか安心して、嬉しいせい?

行きはイケメンスペイン人青年が隣にいました。



フィンランドを旅先に選んだのは、心配が少なかったからだ。

友だちがいるし、英語が通じるし、治安がいい。

10年ぶりの海外、17年ぶりの長期1人旅にはぴったりの場所だと思った。長期といってもたったの5日間。往復の移動時間や時差を入れても1週間。

これが一般的に長期なのか、短期なのかはわからなかったけど、「お母さん」をやってる身としては、十分過ぎるほどの長さだった。



フィンランドを旅先に選んだ理由は、実はまだある。

なんとなく、としか言いようがないけれど、ここになら行ってもいいと、許可を出せる自分を感じていた。

1人でいる自分を受け入れてくれる場所だと思えたのだ。

心惹かれる何かの正体やその予感を確かめたくて、夫に子ども2人の世話を頼み、ひとり、フィンランドへ旅立った。

(旅に出る前のことはこちらから↓)



フィンランドで過ごした5日間の中で、1番心に残っているのは、湖の美しさだった。


早朝、水面に映る空。


「湖なんて、大きな水たまりでしょ」というくらいの、湖を持つ場所に住む人に叱られてしまいそうな、お粗末なイメージしか持ち合わせていない私にとって、「湖のほとりに建つサマーコテージ」は、物語の中の一節くらい遠くて現実味のない存在だった。

川のような清らかな流れも、海のような塩気を含んだ波もない、動きのない場所。

だけど、そんな乏しい認識しか持てなかった私はもういない。

もしも「どこでもドア」があったなら、私は今すぐにでも行きたい。

あの、湖のほとりへ。

ただ、そこにいたい。

そう願う、心の故郷のような場所になった。

昼間の湖は、天然のプールのよう。




フィンランドに何千とある湖。正確な数を知る人は実はいないそうだ。

数多くある湖のほとり建てられた、友人であるロウラの両親が所有するサマーコテージ。そこから臨んだ湖の美しさはとても語り尽くせない。

朝、昼、晩。

時間によって湖の表情は変わる。

どの瞬間も、ほぅっとため息が漏れるほど美しかった。こんなに恥ずかしげもなく「beautiful!!!!」を連発したこと、今まであっただろうか。

限られた時間の中で、湖の記憶をより深いものにしようと、私は暇さえあれば湖を眺めた。

これで23時。夜はまだ来ない。



昼ごはんの準備であちこち動き回るロウラのお母さんや、壊れた屋根を直そうと何か工具を持って通りかかるロウラのお父さん、2匹の元気な黒のラブラドールたちは、私の近くを通る度、声をかけ、にっこりと微笑み、ビー玉のような目でわたしを見つめた。

「こんなに晴れて、暑くも寒くもなくて、風のない日はなかなかないよ」



夏の期間、5月から9月頃までこのサマーコテージで過ごすロウラの両親はそう言って、今日という日がどんなに素晴らしいかを伝えてくれた。


湖はどんな時間であっても清らかで、よどんだ水の匂いなどはちっとも漂ってはこなかった。

「森と湖の国」という枕詞がフィンランドという国の説明には必ずと言っていいほどついてくるけど、それは決して誇張ではない。

湖のほとりに建つコテージの後ろには森が生い茂り、ブルーベリー摘みとキノコ狩りを楽しんだ。


小粒のブルーベリー
足元に生えているので踏まないように。



島で水道水を飲むことはできないけれど、フィンランドの首都ヘルシンキ郊外に住むロウラの家の水道水は抜群に美味しく、日本から持ってきたペットボトルに水をいれ、いつも持ち歩いていた。


うっとりと、ただ心穏やかに見つめる対象でしかなかった湖。

まさかその中に入るとは、しかも裸で飛び込むことになろうとは、夢にも思わなかった。

犬たちは嬉々として飛び込んでました。



フィンランドの人々は、サマーコテージでサウナを楽しみ、身体を冷やすために目の前の湖に飛び込みます。


どこで聞いたのか、もはや思い出せないけれど、「湖に飛び込む」という行為があることは事前情報で知ってはいた。

だけどそれは、フィンランドのシナモンロールはカルダモンが入っているとか、マリメッコを買うならアウトレットがいいとか、スモークサーモンがめちゃくちゃおいしいとか、そういうレベルの情報に過ぎなかった。

私、この中に飛び込むの?
水着を着ないで、裸で?

サウナに入ろうと誘われて、一連の流れを聞いたあと、湖の奥底を見つめる。

湖に素っ裸で入る自分の姿なんて想像できない。

でもまぁ、とにかく言われた通りにやってみようと、一緒にサウナ部屋に向かった。


火を入れていないサウナの中の写真。薪をくべます。


フィンランド人の裸に対するハードルの低さは、日本人以上、いや以下というべきか。

渡フィン前に読んだこの一節を、私は今、実感を持って首を縦に振ることができる。

それにしても、こちらの人たちの裸に対する抵抗感のなさはすばらしい。コテージのシャワー室の窓にも、サウナの窓にも、カーテンひとつなかった。外からまる見えなのである。全裸で海や湖に飛び込んだり、雪の中にまろび出たりする人たちである。町の中の公衆サウナの写真を見せてもらったが、みなタオルひとつ股間に乗せただけで、外で涼んでいる。この外というのは、公共の道ばたのことである。女の人もタオルを巻いただけで、道ばたで体を冷ましながらおしゃべりをするのだそうだ。

わたしのマトカ 片桐はいり著 p127


ガラス張りのほぼ外みたいな場所で、あっという間に服を脱ぎ去り、サウナに入る。

サウナで体を温めた後、タオルを一枚巻きつけ、一度外に出て水分補給をしつつ、クールダウン。

再びサウナに戻り、汗を流したら、外に出て、青空の下、裸になって水の中にダイブする。


なんとシンプルで、恐ろしいことか。



サウナの室内温度は80度以上。木の香りが充満した室内は程よく水分があるせいか、耐え難いものではなかった。日本のサウナが苦手な私も大丈夫だった。

熱を入れる前のサウナも木の良い香り。


フィンランドでは子どもも一緒にサウナに入ることができる。8歳のタイミーは、階段状になっているサウナの1番下で、蛇口からバケツに水を注ぎ、自分の体に水をかけながら過ごしていた。

熱い蒸気は上に上がるため、大人は上の段、子どもは下の段に座るのがルール。日本のサウナと違って乾燥してないし、呼吸はしやすい。

「何歳から子どもはサウナに入れるの?」と聞くと、特に年齢制限はなく、時間や座る場所への配慮はもちろん必要だけど、1歳頃から入れることもあるらしい。

目の前に広がる湖の水面を窓越しに眺めながら、額から流れる汗を感じていると、「そろそろ行こう」と、タイミーが立ち上がる。子どもだけで湖に飛び込むのは危険なので、必ず大人が一緒に行かなければならない。

ここを裸足で歩きます。



みんなで木の桟橋を渡り、湖の際まで進む。待ちきれないというように、タイミーが湖に飛び込んだ。

桟橋に取り付けられた階段を降り、水の中に身体を沈めるロウラのお母さんは、目をつぶり気持ちよさそうに泳いだ。

しゃがんで水温を確かめてみると、ひんやりと冷たく感じられた。

水の冷たさに後退りする私に

「今日はかなりあったかいよ。23度もあるんだから」

と、既に湖の中にいるロウラのお母さんは笑顔で手招きをする。

水温23度が温かいのか、冷たいのか、いまいち私には判断できないけれど、タイミーは「あつい」と言っているそうなので、(フィンランド語はわからない)多分良い温度なのだと思う。

「ゆっくり入ると冷たく感じちゃうから、飛び込んだほうがいいよ」とロウラは言い、長身の身体からタオルを巻き取り、湖に向かってジャンプした。

「かっこいい‥」と羨望の眼差しを向ける一方、

「ホントに、ココに、とびこむの?ダイジョブ、わたし?」

と戸惑う自分もいた。

ニコニコと気持ちよさそうに笑うみんなの輪に入りたい気持ちと、足もつかない水の中に飛び込んだりして、溺れたりしないかしらと不安な気持ちが交錯。

初回は湖に続く階段を降りて、膝下まで水をつけるに留めた。「こういうとき、臆病なんだよな、私」と、心の中で自分に声をかける。


上を見上げると、太陽はまだ真上にあった。青空の下、360度何も遮るものがない明るさの中で、服を身につけずにいる解放感と

「すごく気持ちいいけど、無理はしなくていいからね。」

と、決して押し付けたり、無理強いしたりせず、見守ってくれる友人の優しさに触れて

「飛び込んだらどんな気持ちになるのか、知りたいんじゃない?」

という、私のくすぶっていた好奇心がぐんぐん膨らんだ。


食欲もぐんぐん膨らむ。




サウナへ戻ると、さっきよりもサウナの中が涼しく、心地よく感じられた。末梢血管が広がっているのか、手足に温かさを感じる。

不思議な感覚だった。

こんなに人目を気にせず振る舞える場所があることや、自然との距離が近いというよりも、自然の中に自分がすっぽりと包まれているいう感覚を持てていることに。


歴史の授業とかで、「西洋の人々は自然を征服しようとし、東洋の人々は自然と共存しようとしてきた」って聞いた記憶があるけれど、私は違うと思う。

少なくとも、フィンランドの人たちは、自然の中にお邪魔させてもらっているというふうに見えるし、自然との付き合いが上手だ。

ブルーベリーを摘み、キノコを探し、湖に飛び込み、明るい夜を心ゆくまで楽しむ。

自然と仲良く過ごす。その方法の一つを体験させてもらっていた。



「そろそろ、行こうか?」と誰ともなく動き出し、サウナから出て湖に向かう。

せっかくここまで来たのに、飛び込まないなんて、もったいない。ドキドキしながらも、心はもう決まっていた。

私以外の3人が次々に水の中に飛び込み、歓声を上げる。

よし、私も。

貸してもらったフィンレイソンのグレーの大判タオルを取り、桟橋にある手すりにかける。

2、3歩後ろに下がり、呼吸を整える。ロウラのお母さんが手すりにかけた色違いのブルーのタオルが優しく風に揺れていた。

小走りして、思いっきりジャンプをする。湖に飛び込むと、頭のてっぺんまで水に沈んだ。

思っていたほど水は冷たくなく、ちょっぴり塩の味がした。

こういう、かんじ、なんだ。

初めて味わうこの感覚に夢中になった私は、この後、さらに2回飛び込んだ。

You are so brave,Chihiro!

「勇気あるね!」とロウラは笑って言ってくれた。



やってみたら意外と平気だったってこと。実は、たくさんある。

例えば、自転車に乗ること。
例えば、1人で旅行すること。
例えば、自分の書いたものを人に読んでもらうこと。

やる前は、怖くて、とてもそんなことできないと思って、どうしようどうしようと悩んでいたことでも、今は思い悩むことなくできてしまう。

だけど今回久しぶりに思い出したこの感覚に、私は感謝した。

なぜなら「こうすれば、私にもできるんだ」という、自分の恐怖心の乗り越え方が分かったから。

やりたいという気持ちがあっても、「お金がかかりそう」「今のタイミングじゃない」「時間がない」「家族との時間がなくなる」など、いろいろな理由や言い訳で、「自分のやらない」行動を正当化し続けていた。

そんな自分がイヤで、もう正直飽き飽きもしていた。自分のために時間やお金や思考を使おうと思って、思い切ってフィンランドに行ってみた。

フィンランドに行くという選択と決断をたった一度したからといって、すぐに自分が変われるわけじゃない。長年の癖はなかなか抜けない。

それでも今回、「サウナの後に裸で湖に飛び込む」という体験は、自分が何に怖さや戸惑いを感じ、何に勇気や後押しを感じるのかがハッキリ分かった。

臆病で優柔不断な私は、未知のフィールドにいきなり飛び込むことはできない。

でもすでに経験している人の生きた情報があれば、例えば今回の湖であれば、水温はどれくらいなのか、どうやって飛び込んだらいいのか、入るとどんな気持ちなのかなどの事前情報があると、かなり安心する。

漠然とした不安が減り、何が怖いのか、その怖さにどう向き合えばいいのかがわかるからだ。

そしてもうひとつ、私にとっての魔法の言葉を知った。


「やりたいならやったらいいけど、やりたくなかったら無理しなくていいからね」

この言葉は、優しさに満ちている。

なぜなら、決断の余地を与えてくれるからだ。


「やる/やらない」は、最終的には自分で決めること。そこに無理強いや強制はあるべきでないと思ってる。でも、誰かに決めてもらった方が楽な時もある。責任が自分にないからだ。

決して批判も強制もない、「やりたいならやったらいいけど、やりたくなかったら無理しなくていいからね」の声かけは、フィンランドの人々のスタンスそのものに感じて、とても心地よく、大人の優しさを感じたのだった。

事前情報と優しい声かけ。

何か新しいことを始めるときや、未知のフィールドに飛び込むときに、必要な武器を感覚的に得られたことが何よりも嬉しかった。

優しい声かけは、他の誰かにしてもらう以外にも方法がある。


自分が自分にしてあげればいいのだ。


こんなことを無意識にしてはいないだろうか。

脳内で自分を傷つける言葉を浮かべたり、追い立てたり、やりたくないことを自分に強いたりする「自分いじめ」を。

北風と太陽みたいに、自分を進ませる方法は優しさなんだと思う。

他人に優しく、自分にも優しく。

そのほうが、人は、前に進める。自分を信じられる。

私が私をより深く知ることになったこの「湖ダイブ」は、これまでの私も、これからの私も、より好きにさせる宝物の経験となっている。













また行きたい。行くよ、必ず。


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