【ナチスの協力者】精神分析の「巨匠」ユングの闇
今回は日本で人気の精神分析医、カール・ユングとナチスの密接な関係について書いていこうと思います。
(※ユングに関する基本的な情報は私がここに書くまでも無いので割愛します)
ドイツ精神医学界の「脳病神話」と精神療法学会の誕生
19世紀半ばに精神科医ヴィルヘルム・グリージンガーが著書で「精神病は脳病(脳の器質的病変)である」と記して以来、ドイツ精神医学界はこの考え方を金科玉条とし、心因(ストレス因)の精神疾患(主に神経症)には否定的でした。
しかし、第一次大戦の終了に伴い膨大な数の神経症患者が出現したことにより、精神分析をはじめとした精神療法に対するニーズが高まり、1926年に「一般医学精神療法学会」が設立されます。
(とは言えこの学会は催眠や暗示療法に重点を置き、精神分析とは一定の距離を保っていました)
そして1929年には国外会員を含めた「国際一般医学精神療法学会」へと発展し、1931年にユングがその副会長に指名されます。
ナチス政権発足後
1933年にヒトラーが政権を獲得すると、ドイツ国内の組織に対する「強制思想同一化」が行われ、「ユダヤ的なもの」が一斉に追放されます。
精神分析も「ユダヤ人の学問」として全面的に禁止され、大学教授は公職から追放、著作物は「焚書」されました。
そうした事態の中で国際一般医学精神療法学会の会長であったクレッチマーが辞任すると、副会長のユングが会長の座におさまります。
新組織の誕生
そしてユングはナチスの要人の従兄弟というだけの無名の分析医、マチアス・ゲーリングに「会長職を譲ってもいい」と発言し、それを受けてゲーリングはナチシンパの分析医をかき集めます。
(中には「自律訓練法」でお馴染みのシュルツも含まれていました。彼はゴリゴリのナチ党員です)
彼らはゲーリングと共にナチ思想に即した新組織「ドイツ一般医学精神療法学会」を立ち上げ、ゲーリングは会長に、ユングは副会長になります。
そして組織の一新に伴い、母体であった国際一般医学精神療法学会の規定類を全面的に改変しました。
具体的には「ヒトラーへの忠誠のもと」で
・ドイツ国内の精神療法家を一体化すること
・精神分析をそれまでの「ユダヤ的なもの」から峻別し、ナチ国家にふさわしい「アーリア的なもの」として確立すること
などをその活動の目的に掲げました。
そしてその海外組織(かつての国際一般医学精神療法学会)の会長には、ユングが自ら名乗り出て就任しました。
ユングの言動
ユングはナチ政権発足後、ラジオや講演会で暗にヒトラーを称揚したりしていましたが、衝撃的だったのは1934年1月12日に刊行された「精神分析中央雑誌」で発表した論文「精神分析の今日的状況について」でした。
その中で彼は無意識を「アーリア的」「ユダヤ的」に分けた上で、「アーリア的無意識はユダヤ的無意識よりポテンシャルが高い」と書いたのです。
このあからさまな人種差別発言にはスイス国内からも批判の声が上がり、精神科医のグスタフ・バリーから「新チューリッヒ新聞」上で強く非難されました。
それに対しユングはソッコーで同紙に反論文を寄せますが、その内容は
「(自分は)ドイツ一般医学精神療法学会の国際組織の会長に過ぎず、その会長職を引き受けたのも同じドイツ語圏の学会との伝統的な友好関係を保持するための方策であり」むしろナチ精神分析の方が「自分の名前を利用している」
とツッコミ所しか無い様なものでした。
そして1940年に任期切れで会長職から退いた翌年、チューリッヒで開かれた学会で初めて(あれだけ深く関わっていた)ナチ国家における精神分析を批判します。
なぜ急にあのタイミングで?という謎は今も残っていますが、
・スイス国内での立場を考えざるを得なくなったから
・この発言でもってナチスとの関係を全て清算(チャラに)しようとしたから
といった事が言われています。
が、この発言によりゲーリングとの関係が一時的に悪化し、さらに即座に「新チューリッヒ新聞」に皮肉まじりの批判をされてしまいます。
戦後のユング
ドイツ降伏直後の1945年6月、「カタストロフィーの後で」と題した論文でユングは自分とナチスとの関係を全面的に否定し、それどころかドイツ人全体が「精神病質」であったと「診断」し、ナチスの責任をドイツ人全体に押し付けました。
この信じられない言い分に対し、ナチスに「好ましからぬ作家」との烙印を押され、「焚書」されながらもドイツに留まり、消極的抵抗運動を続けたドイツ人作家エーリヒ・ケストナーは
「スイス人は犯罪者を含む大勢のドイツ人に対して、戦後特別列車をしたててたくさんの薪を運んでくれた。この暖かい援助によって今冬には多くのドイツの家庭が暖を取ることができた。しかしユングだけはそれをやらなかった」
との声明を発表し、批判しました。
告白、そしてその後
そんな「強気」なユングでしたが、1947年にチューリッヒを訪問したユダヤ人神学者レオ・ベックに
「たしかに私は足を滑らせました(=過ちを犯しました)」
と述べています。
この「告白」の後、ユングはそれこそ「老賢人」の様に振る舞いながら、自身とナチスとの関係については沈黙を貫き通しました。
日本の心理学界とユング
ユングの人物像と彼の業績とは分けて考えるべきです。
しかし、欧米ではマイナーな(というかカルト的な)存在のユング派が、日本の心理学界ではあまりにも無批判に受け入れられ、かつ力を持ってしまっているという奇妙な現実があります。
それには原因があるのですが、少し長くなってしまったのでまた別記事にしようと思います。
今回は以上となります。
お読み頂きありがとうございました。
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