「書を見る」とはどういうことか−審査・鑑賞・批評−
書を視覚芸術と捉えた場合、「書は見るもの」となります。
この「見る」という行為は、具体的にどのような行為なのでしょうか。
「見る」と言っても、その内実はさまざまで、複数の言葉に言い換えることができそうです。今回はその中でも、審査・鑑賞・批評という言葉にスポットを当て「書を見る」という行為について考えていきたいと思います。
【審査】の場合
審査とは、主に優劣を決める際に使用する言葉です。公募展などでは、審査員がいて、作品について審査をします。基準に達しているか、基準に達している作品の中でもどの作品が1番良いか、など作品の優劣について判断するのが審査と考えて問題なさそうです。
書道は、「道」という文字がついていることからもわかるように芸事の1つです。
芸事の特徴として師弟関係が挙げられます。師匠から技術を学び、弟子に継承されていくという方式は、しばしば弟子の自由を奪い、思考を硬直させます。教室内でも師匠の言葉は絶対で、弟子の作品は常に師匠からの審査を受けることとなります。ここで重要なのは、この師弟の関係性が審査を「絶対的なもの」「自分では覆すことのできないもの」と認識させてしまうことです。(もちろん、現在ではそのような指導をする人は少数になってきていると思われます。)
大きな公募展の審査は、一瞬で終わります。膨大な数の量の作品を審査しなければならないので、仕方ありません。一瞬で見ることができるもの、それは作品の「造形」です。以前の記事でも書きましたが、公募展は造形の競い合いです。作家たちはそこに全力を注ぎます。
以前の記事↓
審査のスピード感、おわかりいただけるでしょうか。ものすごいスピードですよね。
そのように考えると、審査の場合は、作品と向き合う時間は非常に短く、かつ一面的になってしまいそうです。しかし、他者からの評価は自分の評価とは異なることもよくあり、作品を客観的に捉えるという意味では有効だと思われます。
【鑑賞】の場合
次に鑑賞の場合はどうでしょうか。鑑賞とは、大雑把に言えば「見て味わうこと」です。この「味わう」ということが審査とは異なります。
審査は
・優劣を決める
・作品の評価を決めるのは他人
鑑賞は
・優劣は決めない
・作品の評価を作り上げるのは自分
という感じで審査とは異なるベクトルをもつ行為と言えそうです。
鑑賞が難しい理由に、作品の評価を自分の中で作り上げることに鑑賞者自身が慣れていないから、というものが挙げらます。今まで、師匠である先生に「合格!!」と言われることだけを書道の喜びとしていた人にとって、作品の良し悪しは「先生が決めるもの」であり、先生の視点が最重要になります。したがって、自分の中に作品を見るための素地が培われていないことがほとんどです。「味わう」ための感覚器官が育っていなければ、「味わう」ことはできません。良い食事をして舌を肥やすように、目も肥やしていかなければならないわけです。
食べ物の美味しさに優劣をつけることは難しいですよね。好みもありますし、その日の気分で、美味しいと感じる食べ物が変わってきます。これは芸術でも同じことが言えます。
私たちは日頃から多くのものを口にし、味覚を覚えていきます。しょっぱいという感覚、酸っぱいという感覚を感覚器官を通じて感じています。酸っぱいを感じることができるから、甘いという感覚を酸っぱいと区別できます。また料理の仕方によっては、甘いという感覚としょっぱいという感覚を同時に感じることもできるわけです。
芸術の鑑賞の際にも、複雑な「味」がするようなものに出会うことで、その味わい方を訓練することができるのです。
書道の作品を見るというと、文字ばかりを見てしまいそうですが、動画のように、掛け軸(表具)の美しさや調和、空間との調和なども味わうための重要な要素になります。鑑賞は一瞬で終わることのできない行為と言えそうです。
【批評】の場合
「批評」と言われると、なにか文句をつけられそうな怖い印象をもちますが、芸術の場合は、その作品の歴史的・芸術史的位置づけであったり、その作品の良さ・素晴らしさ、さらに「書とは何か」を発信する行為とも言い換えることができそうです。
音楽評論家、美術評論家、という言葉は聞いたことがありますが、書道評論家という言葉はなかなか聞いたことがありません。もちろん、そのような言葉が浸透していないだけで、書道の位置づけや理論、美学などを発信してる人は多くいます。しかし、そのような人は美術や音楽の分野に比べて圧倒的に少ない状況です。理由はさまざま考えられますが、今回は2つ取り上げたいと思います。
①書の分野が師弟関係を基盤としているため、師匠からの判定的な評価を受けることが多く、批評という文化が根付かなかったから。
②書を担っていた人々の多くが、他分野でも活躍している人であったが、書家たちが独立した昨今では、批評をできる文章家としての書家がいなくなったから。
①については誰もが納得することだと思います。そもそも師弟の間柄では批評ができる土壌はなかったということです。②については、現代の書において深刻な問題だと言えます。書を批評する人が現代に至るまで存在しなかったわけではありません。近代でも多くの人が書について論じています。夏目漱石、高村光太郎、会津八一など、当時のエリートたちが書について論じています。
ここで、みなさんも思うはずです。
「え?夏目漱石が書を論じている?彼は小説家じゃないの??」
そうなんです。以前も記事にしましたが、書はエリートのものでした。したがって、当時のエリートが書を論じているのは当然のことなのです。書の歴史を変えてきたのは、書をやっていたエリートたち(書以外にも活躍の場をもっている)であり、当然文章を書く才能も持ち合わせていました。日本の場合は特に近代の文豪たちも書に関わっています。文豪たちの文学の形態が書に大きな影響を与えたのは言うまでもありません。
芸術全般に一家言あった夏目漱石は文展(現在の日展)を批判し、彫刻家の高村光太郎は書を造形芸術だとしています。「書とは何か」という問いに対して彼らが建設的批評をしていたのです。
そのように考えると、書があらゆる分野から切り離され、書家が書家として生きている現代においては、文章家としての書家が現れることは難しいのかもしれません。
このように、批評は見るという行為をさらに推し進め、言語化することでその作品の価値を高めていきます。言語化するには、知識も必要ですし、味わうための感性も必要でしょう。そういう意味では、審査、鑑定、鑑賞などもできた上で成立する高度な行為だと言えるでしょう。しかし、だからといって特定の人しか批評ができないかと言われたら、それも違います。見るという行為は、特定の言葉に縛られるものではありません。行き来しながら見るという能力が高まってくると考えるのが自然でしょう。
今回は「書を見る」という行為について述べてみました。現代の書のフィールドにおいて重要なのは「鑑賞」「批評」のような書の見方でしょう。審査的な見方を続けたところで、書の考え方や見方が変わるとは思えません。実は書に関わる多くの人がそのことに気づきながらも突破口が見つけられない、、、。そんな状況に思えます。私自身も「書とは何か」について発信をしながら、これからの書の理想を語っていきたいと思います。
書の世界は複雑で、さまざまな分野につながっています。
‐書の奥深さ、すべての人に‐
&書【andsyo】でした。
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