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方電車
「痛っ。足踏んでるぞ」
「あっ、すいません」
隣の男に軽く会釈した後、いかにも居心地悪そうな部長は小声で折橋に尋ねた。
「おい、この電車いつもこんなに混んでるのか?」
「そういえば部長は車通勤でしたね。朝はいつもこんな感じですが、この時間でこの混み具合は珍しいんじゃないかなぁ」
「やはり例の噂が原因か?」
「恐らくは……」
すし詰め状態の満員電車。部長は人いきれでムッとする車内を唯一動かせる首を使って辺りを見渡す。
「それにしても何で皆両手を上げてるんだ?」
「痴漢に間違われないようにですよ」
「痴漢? 周りは男だらけだぞ」
「多様性の時代ですからね。色んな人がいます。つまりはリスクマネージメントって奴ですよ。部長もよく仰ってるじゃないですか」
子供を諭すように話す折橋。その要を得ない話に益々苛つきながら部長は、隣の車両とを隔てる扉をアゴで指した。
「ふんっ。多様性だと。じゃあ、あれはどう説明する?」
折橋は部長のアゴの延長線に目を移す。
「女性専用車両……。この状況でも有効なん……」
『キーーーーッ!!』
突然のブレーキが1人も漏らさず全ての乗員に前向きの圧力を配給した。
「あたたた。部長大丈夫ですか?」
「まぁ何とかな。今のも例のアレの影響なのか?」
「どうなんでしょう。ここからじゃ外の様子は見えないですからね。ただネットではこの電車に乗ってれば安全って話でしたけど」
「だいたい何で電車なんだ? こういう場合普通は舟だろ」
部長の眉間のシワが一層深くなる。
「それは僕に聞かれましても……。何でも神様がこの電車を用意したとか」
「ふんっ。神様もどうせ電車にするならグリーン車くらい用意しろってんだ」
『ガタンッ』
「おっ、動き出した。ん?」
部長がその鷲のような鼻を怪訝そうにひくつかせる。
「どうしました?」
「何か獣の臭いがしないか?」
「そうですか? でももしかしたらペットが溺れるのが忍びなくて連れ込んでる人がいるのかも」
「電車に動物持ち込んでいーのかよ」
「まぁまぁ、確か神話でも舟に動物乗せてましたし。この電車に乗ってる生物は運命共同体。一蓮托生ですよ」
「運命共同体……。一蓮托生ねぇ」
そう呟いた部長は天井を見上げる。こめかみから滲み出た脂汗が首筋を通りYシャツに染み込む。そのまま目を閉じ雑踏に耳を澄ます。
「おい、押すなよ! もっとそっち行けるだろ!」
「モモは犬なんかじゃない! 僕の友達なんだ!」
「ちょっと男が入って来ないでよ! 写真撮ってSNSに拡散するわよっ!」
「痛っ! 噛まれたっ!」
「これじゃあ逆差別じゃないかっ!」
「だから足踏んでるって!」
「ワンッ! ワンッ! ワンッ!」
フーッと息を吐いた部長は折橋のネクタイを掴んだ。
「折橋、次の駅で降りるぞ」
「本気ですか部長。外はどんな酷い状況なのか分からないんですよ?」
部長は辺りを首だけでゆっくり見回し
「さして変わらんさ」
そう言うと両手を上げたまま降り口へと向けて体を躙り出した。
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