塵芥・リサイクル・ロココの精神 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』21〜
気持ちの動きをつぶさに観察していると、色々に揺れ動くことがわかる。
たぶん、私は今、職場の愚痴を詳細に書き記したい衝動に駆られている。
私自身の話ではないのだが、ケツを拭かせられる身になっているので、先程川端の感想文の中で仄めかしたストーリーをもっと詳細に、具体的に、でも身バレしないように書き記したい!
家で言えよ、ということになるのかもしれませんが、意外に仕事の愚痴って家ではお互いの環境が違いすぎて共感してもらえず、不全感だけが残りませんか?なので、あまり家族に愚痴を言うことはできません。
この日々溜まっていく愚痴は、人間が出すゴミと同じようなものかもしれません。
じゃあ、アンタはゴミをこのnoteで披露して、自分だけスッキリしようとしているのですか?と問われそうです。そう思うので、ぎりぎり、別の想念で自分を宥めすかしているわけであります。
私は実は人の愚痴は大好きで、いくらでも聞いていられます。
この愚痴を聞く才能を自覚した時に、急に「モテ期」が来たのです。様々な愚痴を聞いてまいりました。異性が多いです。同性にはいえない愚痴を、異性にぶつける。しかも、その異性は、全く恋愛とは無縁な異性。私は、もともとコミュ障と呼ばれるタイプでしたが、この愚痴を聞くモードによって、改善できたのかもしれません。
この人間が出す愚痴というゴミを、小説という形でリサイクルして、もう一度市場に戻してやろうとしてましたが、うまくいかないですね。生々しい。春樹先生の『ダンス・ダンス・ダンス』だって、壮大な愚痴と言っていえないことはありません。じゃあ、文学とは愚痴のリサイクル事業なのでしょうか?だとすれば、すでに人間は精神的にはサステナビリティを獲得している。物質においても、じゃあ、実現可能ではないでしょうか。
*
「僕」の元へ二人の警察官が訪ねてくる。どうやら殺人の嫌疑がかかっているらしい。
誰が殺されたのか、と思ったら、この間五反田くんと飲んだ時に来てくれたコールガールの一人でメイという女が殺されたという。
「僕」は、嫌疑を晴らしたいが、証言をすることが五反田くんのイメージを悪くすると思って、黙秘を貫いた。そのために、ユキと一緒に食事に行く約束を反故にすると同時に、一晩留置場に宿泊することになった。
心の中で「僕」はメイを懐かしみ、そして謝罪する。
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ヴィーガンラテというのを初めて飲み、なるほど、はっきりと植物性の香りを感じる。動物的な香りと植物的な香りは、これほど違うのかと、瞠目しました。
香水の歴史というジャンルがございまして、その中に動物性の香りから植物性の香りへとシフトする時期があります。麝香や竜涎香から、植物性の香りへと移行する背景には、造園技術とそれを飾る花の発展があり、花やその茎の軽やかさをイメージの根源とするロココの精神があった、と、『においの歴史』のアラン・コルバンは言っていたようないないような。
慣れてしまえば、これはこれで面白いものだと思って、あまりこだわりのない私は、それを楽しみに飲んでおりました。しかしながら、隣で初老の夫婦がごちゃごちゃいっております。恐妻家なのか、妻が怒り狂って、ミルクが云々と夫に言い、夫は恐る恐る店員さんに確認を申し出、結果、淹れ替えるという話になっていました。
それよりも私は、その怒り狂った妻が発するゲップや鼻水を啜る音に苛立っていますよ、と訴えたいのだけれども、もうこういうのも愚痴の類で、リサイクルできない類なんだろうなあと。でも私はこれを果敢にリサイクルさせてもらおうと。
相変わらずアンタはカフェで聞き耳を立てておられますな、と言われそう。
ヴィーガンラテは、口にするたび、ロココの精神を思い起こさせますし、隣の憤懣やるかたない妻の一言一言は、私にリサイクルとはなんぞやという問いを突きつけてくる。そして、私の愚痴もなんとか霧散しそうな気配で、とは言え、メールの返信が来たら、とりあえず面談のアポイントメントを取って、色々と具体的に「あり得ない」というのはどういうことか、具体的にしていかないといけないですね。
まずはそれから。
書き出すことで、やることは明確化されます。
スカッとしませんなあ。
あ、そうか『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」のいう「文化的雪かき」はそういうことか。愚痴のリサイクル。繋がった。全ては繋がっている。
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