ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』7 〜第二編 場違いな会合 「一 修道院に到着」〜

感想文では第二章に入りました。現実にはもう第二章を読み終わりつつあるのですが、長老にあれこれと告白したり、相談したり、アプローチをかける人たちの話が煩わしいです。いや、本当にそうは思っていません。小説のありようとして、いろいろな声が混合して、一つの印象をなす、ことの心地よさを多少なりとも知っているからなのかもしれません。ただ、敢えて言えば、この小説を家族の揉め事の問題解決として読んでいった場合、早く問題の解決編に至れよ、という思いが浮かんでくることも否定できないと思うのです。

例の粗暴な長男が、会合に遅れてきます。その後見人だったミウーソフとフョードルは、前妻のこともあって、若干バチバチになってるし。フョードルがなんかやらかすんじゃないかと、アリョーシャはピリピリしてるし。イワンは我関せずを貫いているし。そんな感じで会合は宙ぶらりんになったまま、カメラは一旦ドミートリイが来るまで退席したゾシマさんを追って、別部屋に行き、そこで色んな人が長老!長老!と面会と告解のようなものを求めます。

それらの話が、本線に関係あると思えるか、本線と関係なくても作品を構成している要素として見ることができるか、色々考えちゃいます。ただ、相談者一人一人の語りの力はなるほど力強くて、私などは一人称ですらヒイコラしているのに、複数の声を書き分けるのは、さすがの文豪と思わされますです。

さてさて、それはもっと節が進んだところで言及しようと思うのですが、この節はミウーソフとフョードルが一緒になって会合に向かう時の情景を描いてます。フョードルに軽い嫌味のジャブを飛ばすミウーソフ、侮られたと思ってモヤモヤするフョードル。ていうか、案外俗物のドンファンのくせに結構弱気で、やってることとパーソナリティが乖離があって、我々の感覚ではこれくらいの乱痴気騒ぎをやれる人って、もっと反社な感じ。

ま、そんなイメージはどうでもいいとして、小説における兄弟ものの系譜を辿ってました。高慢と偏見は五姉妹で、若草物語は四姉妹。で、やっぱりカラマーゾフは兄弟ものとしての高峰にあって、例えばフォークナーの『アブサロム、アブサロム』なんかはそうした影響を濃厚に受けている。そもそも聖書からして兄弟ものであり、小説の主題としての兄弟、姉妹はメジャーなものであるなという当たり前のことを思い出した。

で、そんな時にあるサイトで、ドストエフスキーに影響を受けた作家としてヘミングウェイがいて、彼がドストエフスキーはほんと文章下手くそだけど、下手くそなのに人の心を打つのはなぜなんだみたいなことを言ったとか言わないとか。何が下手くそと思ったのか、やっぱり文章が長い冗長だってことなのかなヘミングウェイ的には。まあそれはそんな感じするけど、どうなんだろうね、末端の読者的には。

そんな文豪の自己アピ合戦はさておき、ずっと話している感じがするっていうのはあるよね。でも、俺はそこまでうるさいとは思わないな。冗長なのかもしれないし、ロシア語わからないから本当のところは何にも言えないけど、翻訳の感じからだけだと、冗長な言葉を追う時間が、逆にドストワールドの固有性を持ってる気がするな、うん。

ここは普通に心安らかの読めました。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集