回想・移動・ただの文章 ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』43~

さすがに読む時間が長すぎた。本来は長くても3日くらいで読み終わるだろう書籍を、半年も読んだり読まなかったりしながら、とうとう最終章一歩前まで来てしまった。読んでいる間、いろいろなことが過ぎ去っていった。

この半年、病める時も健やかなる時も『ダンス・ダンス・ダンス』がそこにあったし、その世界から離れるのは、いささか名残惜しい。だって、読み始めたのは2022年10月1日だぜ。

家族全員がコロナにかかったり、オリバー・ツイストを中断したり、年末年始のグダグダがあったり、悔しいことがあったりと、色々あった。とうとう『ダンス・ダンス・ダンス』も卒業なのだ。そう考えると、不思議と懐かしく、どこか寂しいものである。

『ダンス・ダンス・ダンス』を初めて手に取ったのはいつ頃だったか。20歳くらいだったろう。私の一度売り払おうとした文庫本の奥付には1991年と書いてある。大学生には難しい話だった。全くわからなかった。それもそのはず、たぶん、三部作を風の歌とピンボールくらいしか読んでおらず、ピースの欠けた状態での読書だったからだ。

ピースが欠けていて何が悪いと思う。読書は、パズルではないからだ。ただ、わかりそうでわからない時というのは、ピースを探すのも悪くないと思う。正直、ネットのお陰で昔よりピースは集めやすくなっている。ただ、そのピースでできるものはあくまで既製品的。ピースを己の力で展開させることが必要だ。昔も今も私はピースを集めがち。

今はたぶんそこそこピースは集まっている気がする。その感覚で読むと、三部作も抽象的、非人称的な書き方をしていたが、より大江健三郎をイメージさせ、カート・ヴォネガット・ジュニアを連想させる。そして、三部作を描いたことにより、元あった主題から展開せねばならぬ難しさのようなものを感じつつ書いているようにも見える。メタフィクショナルな、出だしの第一章だ。

10月1日に『ダンス・ダンス・ダンス』の第1章を読んだ時、こんな感想を書きつけていた。そんな大江健三郎も亡くなった。村上さんは、何を思ったのだろうか。

それにしても、『ダンス・ダンス・ダンス』の再読の動機が80年代的なものを考えようとしたことにあったとは。前半に、それは様々ちりばめられていたが、五反田君やメイの死などへと転調していく後半には、あまり時代的なガジェットについて言及することはなくなっていった。

「僕」はユミヨシさんに会いに「いるかホテル」に行く。

しかし、ユミヨシさんはホテルにいなかった。「僕」は心配になる。

ユミヨシさんから電話が来た。旅行に行っていたのだと言う。「僕」は消えたのではないか、と心配し、会いたいと直接に告げていく。

「僕」とユミヨシさんは寝る。

そして「僕」は文章を書くのも悪くないな、と思う。

五反田君と「僕」はどちらも妻に逃げられた男だった。その妻に対する想いのようなものを抱えているのも同じだった。五反田君は、妻の愛情が冷めたのではなくて、周囲が妻を引き離したと思っている。「僕」は妻が出て行った理由がわからない。

「いるかホテル」を再訪した「僕」は、過去にとらわれていた。その「いるかホテル」にあった謎の部屋は、「僕」の過去であり、追い求めている幻影ではないか。「いるかホテル」は解体され、新たなホテルが建ったが、「その影と気配」はまだ残っていた。この「影と気配」が、過去の回顧にとらわれている「僕」の執着を示すものであり、その執着をキキは消失してみせることによって、断ち切ってみせたのではないだろうか。

「僕」がユキに言った「移動」に関する考察は、「僕」自身に向けられるべきものであり、その自覚を得たからこそ、ユミヨシさんのいる札幌へと「移動」し、過去の幻影を自ら断ち切る決断を行えたのではないか。

ねえ、そうじゃないんだ。君にはわかってないんだ。僕らはどんどん移動しつづけている。そしてその移動にあわせていろんなものが、僕らの回りにあるいろんなものが、消えていく。これはどうしようもないことなんだ。何ひとつとしてとどまらないんだ。意識の中にはとどまる。でもこの現実の世界からは消えていくんだ。僕はそれが心配なんだ。ねえ、ユミヨシさん、僕は君を求めている。僕はとても現実的に君を求めている。僕が何かをこんなに求めるなんて殆どないことなんだ。だから君に消えてほしくない。

p.374

「移動」に対する考察が、いささか混乱した形で、やはり出てくる。「移動」と喪失の関係が、『ダンス・ダンス・ダンス』では考察されているように感じる。自分の前から消えたものは、「移動」しただけで、意識の中には幻影としてとどまる。それは現実的なものとして意識されるが、現実そのものではない。現実そのものは、現実的なものとして意識されない、新たなものとして理解される。

移動によって現実的なものと接触し、その喪失が現実を生み出していく。現実と現実的なものはちょっとずつズレている。

現実的なものと遭遇し、「僕」は未知の「現実的なもの」を、意識の中で「現実」にし、それは意識の中で「現実」となる。しかし、「僕」は「移動」するので新たな「現実的なもの」(=未知のもの)と出会い、意識の中にとどまっている「現実」(=過去のもの)と折り合いをつけたり、入れ替えたりして、新たな「現実」をつくっていく。

この「現実的なもの」(=未知のもの)と「現実」(=過去のもの、既知のもの)との時間的ズレが、裂け目として「いるかホテル」の仮想的な階層に現れたのだといえる。

「現実的なもの」を「現実」にする作業として、「僕」はユミヨシさんを求めるという行動に出た。そして、「僕」はユミヨシさんを「現実」にすることによって、幻影を振り払った。

 何か物を書くのも悪くないな、と僕は思った。僕は文章を書くことは嫌いではないのだ。ほぼ三年間切れ目なく雪かき仕事をやってきたあとで、僕は何か自分の為に文章を書きたいというような気持ちになっていた。
 そう、僕はそれを求めているのだ。
 ただの文章。詩でも小説でも自叙伝でも手紙でもない自分の為のただの文章。注文も締切もないただの文章。
 悪くない。

p.387

いい、終わり方だ、と私は思う。けれども、もう一章残っている。これ以上何を書こうというのか?作家としての核を見つけたところで、終わりでもいいのではないか?

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