檀一雄「花筺」

「檀一雄亡き後、文学は死んだ」と酔って叫ぶ人物を、かつて、福本伸行は『熱いぜ辺ちゃん』の中で書いていた。

脇役の発言など、作者がどこかの飲み屋で聞いた戯れ言をただ写しただけなのかもしれず、ことほど気にしなくてもよいはずなのだが、何ぶん若かりし頃に読んだものなので、素直に「そういう考え方があるのか」と感心して、記憶の中にしまっていた。

それで、ある時に檀一雄の作品を、書店で探すことになるのだが、1995年の段階で見つけたのは、金もなかったので、文庫本メインの探索だったことから、『火宅の人』程度の収穫で、その後も『檀流クッキング』などのエッセイ本しか見つからず、「あれあれ?文学が死ぬほどの人であれば、代表作の一つや二つ、文庫で残っていなければならぬだろうに」と、身の程も知らず考えたものである。

かなり前に、大林宣彦監督の『花筐』が公開された。

結局、スクリーンを観てはいないのだが、「花筐」という檀一雄の初期の傑作を映像化した、ということは興味深い。「花筐」は、檀の出世作であるとともに、三島由紀夫が影響を受けて小説家を志すきっかけになった、という短編である。

実際、「花筐」は短い。

短く、そして、断片のコラージュのような造りの小説である。

榊山という青年が、ストーリーを見届ける役割を果たすのだけれど、語り手というわけでもない。

神の視点から、各々の登場人物を動かしているように見えつつも、各登場人物に語り手が憑依して語る部分があるように感じられるため、純粋な客観小説として受け止めづらいきらいもある。

特に冒頭、榊山が丘の頂きから駆け下りるシーンは、実のところ、この物語の結末と呼応して、最も美しいシーンになるのだが、終わりを読むまで、この冒頭の意味は秘匿されている。

この構造を、尻尾を呑み込んだ蛇構造、と私は勝手に名付けているのだが、それを短編でやると、人物の性格や、各場面のつながりを示す記号は省略せざるをえないため、ロジックは暗示されるのみで、シーンが連鎖するだけになる、という弱点が出てくる。

とはいえ、この短編は、「その町は先ず架空の町であってもよい」と「私」が介入する文にもあるように、ある青春の理念型=「浪漫」を企図して書かれているため、細部の省略は自覚されていると判断した。

なので、弱点即美点という反転を狙ったものであろう。それが成功しているかどうかについては悩ましいが、キラキラとした浪漫的硬質のイメージが乱舞している点、あながち失敗とも言い難い美点を持っている。

好きか嫌いかでいうと、どちらかというと、青臭い野菜を口にした時のような心地になる。

物語は、榊山が「大学予備校」の教室に入り、大きな頭の同級生・吉良やイケメン同級生・鵜飼などの途中退室に乗っかって出奔し、その後、25歳のウィドウである「おばさん」とその亡き夫の妹である「美那」と出会う。榊山も、美人だが肺病もちの「美那」に淡い恋心を抱くが、具体化されぬままである。

ところで、映画は「おばさん」を常磐貴子さん、吉良を長塚圭史さんが演じているのだが、スペックとしては全く問題ないが、年齢は…?

まあ、このあたりのアダプテーション具合についても、見どころなのかもしれない。吉良は特に、鵜飼が連れて来た仔犬をいきなり絞め殺したり、沸騰した熱湯が入っているやかんの中に入れた金貨を躊躇なくとってみせるという奇矯な性格の持ち主として描かれているので、まあ、それはそれということなのかも知れぬ。

吉良は、長らく病気をして、やっと学校に通えるようになった巨魁だ。休みがちになったことを心配して吉良を榊山が迎えにいくことになった。そこで吉良は、榊山に自分の写真の裏側を見るように指示する。そうすると、榊山の高鳴る動悸!

また、吉良は、鵜飼の水泳姿を飽かず見つめる。昭和初期の性は、とにかく控えめで淫靡ですなあ、という感覚のみが立ちのぼる。三島・・・。

その後、鵜飼の恋人で吉良の従妹だという「千歳」や、鵜飼のお友達の「あきね」といった女性たちが現れる。「あきね」に榊山は惹かれるが、このような青春的挿話の中に逐一挿入される言葉。

生きているということは、こんなに甘美な夢なんだ! こんなに豊かな幻影なんだ!

とか、

万歳、僕達の世界だ。もう夜の灯がしみ、街はキラキラと譬えもなく美しかった。

とか、死と隣り合わせであるからこそ、強調される生の悦びが示される。

実際、鵜飼と榊山は酔って、電車の通過スレスレに線路の上をひょいひょい歩いて、ぶつかりそうになったりするのだ。今なら、バカッターによる炎上間違いなしの青春挿話なのだが、このような挿話の一つや二つ、誰にもあるものだろう。

一つのクライマックスは、「おばさん」も含めて、男女6人が集まる榊山宅での晩餐の狂騒である。映画では、千歳を門脇麦さんが演じているが、『愛の渦』でもこのような混沌とした人間関係の1人としてキャスティングされていたように、不思議とこの種の乱交的シチュエーションに居合わせる女優だ、と思う。

もちろん、この場面は『愛の渦』とは異なり、乱交するわけではないのだが、恋の感情の向きがくるくると変化するという意味で、類似しているように思った。

この小説の語り手が変にブレるのは、冒頭の「私」の介入と、美那の内面を描く場面である。美那の場面でどうブレるのかは、是非ともこの短編を読んで確かめていただきたいが、それにしても、他の登場人物に対しては比較的同一の距離をとって記述する檀が、こと美那になると、揺れる。

吉良は、その後、鵜飼に美那の裸体写真を見せ、喧嘩になる。この写真は千歳に撮らせたものだという。そして、喧嘩の後、2人はこのような会話をする。

「君は何かを待っているね、吉良君」と鵜飼は低く声を落とす。
「莫迦な」と吉良は答えた。
「白状したまえ、何だ。何を待っているのだ。何が来るんだ。え?」
「来るものを待ちやしないさ。若し僕が何かを待っているとすれば、そりゃ来ないものだろう」
そのまま二人は黙りこんだ。

そしてクライマックスへと至るのだが、何だろう。

鵜飼はただの女たらしだろう、ということで、あまり納得のいかない結末ではある。読み返しても、その印象は変わらない。これが、映画版では、どのように改変されるのか、されないのか、興味深いところではある。

最も大きな改変は、檀がこれを書いた時、まだ破局的な戦争は予感でしかなかったのに対して、大林監督が最初に映画化を企図した際には、破局的戦争が起こってしまったあとだったということだ。

こうした戦争に対する青春の位置づけ、という部分が、おそらくは最も原作と映画の違いに現れているような気がする。まだ観ていないから、なんとも言えないが。

青春の渦中にある榊山が、異邦で過ごす母に対して出した手紙を引用して、稿を閉じよう。

お母さん。僕は元気ですよ。今此の部屋に来てごらんなさい。きっと僕を抱きたくなる。わかるかしら。今僕がどんなにお母さんを愛しているか。今どんなに僕が大きくなったか。今、朝ですよ。朝陽がいっぱいなんだ。そら。今聖書を読みます。きこえますか。今なら僕、戦争にだって行きますよ。 さよなら 僕

なんとも、難しい作品だった。

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