ソロー『コッド岬』 〜Recycle articles〜


Google Mapをぼんやり眺めていると、知っているはずの地形が、奇妙なものに感じられ、いてもたってもいられずに現地に向かってしまう、ということは、風来坊を気取っている人ならば、一度ぐらいはあることに違いない。

私もまた、そういう風来坊気取りの一人にほかならないわけだが、最近は諸事情もあって、近隣の起伏のある地形をじっくり歩いてみる程度のことしかできずにいた。

そんなおり、たまたま書棚にあったH.D.ソローの『コッド岬』を手に取ると、どこか海に突き出した地形を見に行きたくてたまらなくなった。しかし、当然のことながら、時間はない。

コッド岬は、マサチューセッツ州の、折り曲げた、むき出しの腕である。肩のあたりがバザーズ湾、肘、つまり尺骨の端がマレバール岬、手首はトルーロー、砂地からなる拳がプロヴィンスタウンである。拳の背後ではマサチューセッツ州が、グリーン山脈を背にして海床にしっかりと両足を踏ん張り、自分の湾を守ろうとする拳闘家よろしく身構えている─北東から迫る嵐と闘い、ときには歯向かう大西洋を大地の膝から持ち上げ、さらには、アン岬のあたりで胸部をガードしているもう一方の拳を今にも突き出そうとして。

この説明では、何が何やらよくわからないが、ソローは、こうした「風景」をもっと具体的に観察してみたいという欲望を抱いていたようだ。

それはわかる。私も、具体に耽溺しつつ、その重力に負けまいとして飛翔を試みるようなバランスのよい話が好みである。

ソローは、冒頭、岬を歩いているときに、難破船に出会い、そこから投げ出された水死体をみる。その描写は極めてエグい。しかし、客観的だ。

ソローの『コッド岬』は紀行文なのだろうか。

確かに、とある土地に向い、その土地を眺めるソローの想念を、書きとめているという行為は紀行文に特有のものだ。

けれども、それは、土地を紹介するような販促的文章ではなく、かといって、自分自身の想念の根拠にその土地を矮小化するわけでもなく、観察と観察されるものとが、バランスを保って提示されている文章だ。

書き手のソローがいる位置は、まさに観察する者と観察される者とが平衡になる支点なんじゃなあないか。

ソローが、海を見たいという欲望に突き動かされて、コッド岬に向かったというのなら、遠藤周作は『沈黙』を書くために、長崎へ向かった。

それは、ある種の目的にしたがった土地への下降だといえるが、徐々に、遠藤は長崎という地形に対する興味を広げていく。

遠藤周作の『切支丹の里』は、小説『沈黙』を書くための取材旅行の紀行文化といった趣の強いエッセイ集である。

元来、こうした副産物的エッセイに対しては、あまり食指が動かず、眺めるだけでふーんと読み飛ばしてしまうことが多いのだが、この本の場合、作家自身が無関心から心が動かされていく機微について書かれているために、少しだけ、私の心も動かされた。

はじめての街がいつもそうであるように、宿の人から、あれが出島、あれが大浦の天主堂と指差されても、その歴史も背景もそれほど勉強したことのない私はただ、そうですかとうなずくだけで、特にこの街が自分の心に食いこんできたわけでもなかった。それらの場所も私にとっては、たんなる名所旧跡以上の範囲を出なかったのである。
 ただ、なぜか知らぬが、この街とそれをとりかこむ眠いような空気の奥に、私の興味をひく何かがあった。その何かは勿論、自分でも名をつけることはできなかったが、本棚のなかから、未知の一冊の本を選び出した時の感じに似たものが胸の底から湧いてきた。

遠藤も、名所旧跡を案内されるが、ぼんやりとした理解で通り過ぎてしまう。けれども、いくつか印象に残った何ものかを反芻しはじめるのは、旅から帰ったあとなのである。

私も、似たようなことをしてしまう。

旅に出て、名所旧跡をまわるものの、なんとなくふーん、と過ぎてしまう。むしろ、立ち寄った古書店などで、歴史でも勉強してみようか、と帰り道にページをめくる中で、発見があり、居る間に見ておけばいいものの、帰ってから猛然と関連資料を読み漁る、ということがある。

私にとって、旅とは追想のようなものかもしれない。

ソローは、現場で土地に向き合っているように見せかけてはいるが、おそらくは観察と追想を分けて書き、しかるのちにそれの境界をぼかしているように感じられてならない。

本質的に追想とは書かれた文章なのだ。

私たちは、体験を少し遅れて知覚する。

遅れたことのズレを補正するために言語による補足がされる。

本を読んだあと、感想を書く。旅行に行ったあと、追想を書く。

ここで書かれたものは、体験の中で思いつかなかった事柄を、書きながら思いつき、あたかもそれが体験しながら想念したかのように、生き生きと動く。

旅は追想によって補足してやることによってのみ、私の記憶となって十分に生きることになる。

だから何だというわけではないが。

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