川端康成『山の音』9「春の鐘」

『山の音』のDVDが届いたので、少しづつ観ていくことにした。

監督は成瀬巳喜男。私でも知っている有名な監督だ。

最初の8分ばかり観賞すると、原作をそのまま移植しようとしたわけではないことがわかる。

小説『山の音』の主人公は誰かと言われたら、圧倒的に語り手の信吾であると思う。しかし、映画『山の音』の主人公は誰かと言われたら、菊子演じる原節子だろう。菊子を原節子が演じるのではなく、原節子のイメージで菊子を造形している。そのため、映画『山の音』のトーンは、冒頭大変に快活である。

そして、映画『山の音』だと、房子に遠慮がなく、房子の娘の里子が、とにかく嫌な感じを出している。それは良い。

ただ、小説でも、里子は、かなり嫌な感じになってきた。

この小説を読んで思ったのは、川端は嫌な感じの子どもを描くのがうまいということだ。子どもの醜悪なところを、よく見ている。

寺の鐘が鳴る。

保子と信吾の会話。日本漕艇協会副会長の高木子爵の夫妻が失踪した。子どもらへの置手紙があった。「孫達だけにも、いいおじいさん、おばあさんだったとの印象を残しておきたい」から失踪したのだと言う。

信吾は細君の遺書がなかったのか聞く。なかっただろうし、もしそうなったら、私も書きませんよと保子は言う。菊子はどうする?と信吾は聞いて、ハッとなった。老人が嬰児を生活苦のために殺してしまった記事について保子が話すのを聞いて、信吾は悩ましく思う。

房子が菊子を呼びつけ、ミシンの不具合について訴える。信吾は、房子の機嫌がなおるまで、房子と里子をつれて、散歩に出かける。途中、鎌倉の大仏を見に行く。晴れ着を着ている少女を見かけて、里子が「おべべ。おべべ買って。おべべ。」とぐずりだす。

里子は、晴れ着を着ている子どもの袖を掴もうとする。子どもは逃げようとして転び、車に轢かれそうになる。

女の子がむくっと起き上がって、母親の裾に抱きすがってから、火がついたように泣き出した。
「よかった、よかった。ブレエキがよく利いたねえ。高級車だねえ。」と誰かが言った。
「これがあんた、ぼろ車なら、生きてないねえ。」
里子はひきつけたように、白目をつり上げていた。おそろしい顔だった。
p.180

信吾は、房子の問題が面倒になった。そして、里子も面倒になった。家に帰ると房子は寝ていた。里子はまだ難しい顔をしていた。菊子は黒百合を活けた。菊子に例の購入した慈童の面をかぶってもらった。菊子は面の奥で泣いていた。

日本の古来の悲しみとは何だろう、と、『伊豆の踊子』、『古都』を読んだ上で『山の音』を読みながら考える。

『山の音』にあるのは、音の反復、じゃないだろうか。

映画『山の音』では、小説に散りばめられたえも言われぬ音はあまり出てこないけれども、登場人物たちが繰り返し、「菊子(きっこ)、きっこ、きっこ」と呼びかける声が、不気味に響く。あの呼びかけを、単なる名前の呼びかけと理解できなくはないが、私の感想としては映画『山の音』において、不気味な音として「きっこ」という呼びかけがあると思う。

小説においては視覚的要素の方が取り上げられやすい。

言葉を読んで映像として脳内のスクリーンに表象するのは、もっぱら視覚的な要素だからだ。嗅覚や聴覚は、どちらかといえば飾りやノイズとして処理される。しかし、『山の音』に限っていえば、タイトルに音がついているからだけではなく、日常的な音をめぐる小説だと言えそうに感じた。

いわゆる自然音の録音的な、アンビエントな雰囲気も感じる小説だ。

不協和音だと思うけど。


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