ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』5~「四 三男アリョーシャ」

兄弟ものって、俺、あんま知らないんだけどさ、リアルなバトルだと、堤家?森家?まあ、なんでもいいんだけどさ、兄弟ものはやっぱり血で血を洗う感じになりがちなのかな。『ハウス オブ グッチ』とか、『アンティゴネー』とかさ。

粗暴で直情的な長男・・・ドミートリイ 28歳
理屈屋の次男・・・イワン 24歳
敬虔な三男・・・アレクセイ 20歳

キレイにキャラに分けて、これ本当に大文学なのかよ、ってほどにキャラ立ちしております。まあ、要するにキャラ立ち、ということがやっぱ大文学には必要なのかもしれないね。それがあるからアンチ・ロマンもあるわけで。

そのうち、この節は、三男アレクセイ。

いわゆるアリョーシャですね。ですです。

そうなんだよ、これ、とりあえずそうやって言っちゃうけど「いい人」。いや、そういってほしくなくて、その「いい人」性をいろいろドストエフスキーが語ってくれちゃって、こういうなんとなく威厳があって、近寄りがたくはないけど、いじるのもはばかられるような、それでいて女子には弱くて、下ネタが嫌いで、みたいな同級生、いたかな?

この節は、要するに、アリョーシャの感じをがっつり書いてくれてる節で、あのヤバめのオヤジであるフョードルすら、

しかし、俺はお前と別れるのが淋しくてならんよ、本当の話、お前をすっかり好きになったんでな……もっとも、これはちょうどいい機会だ、せいぜい罪深いわれわれのために祈っておくれ。なにしろ俺たちときたら、こんなところに引きこもって、さんざ罪を作ってきたからな。俺はかねがね、俺みたいな人間のために、そのうちだれか祈ってくれるだろうかと、そればかり考えておったもんだよ。

とかなんとか、言っちゃうくらいで、まあ、本当に本心かどうかは知らんけど、知らんけど、そんなことを口走らせるくらいには、感化力があったんだろうね。

しかし、彼は人々を愛していた。人間をすっかり信じきって、終生を暮しているように見える彼だったが、それにもかかわらず、一度としてだれ一人、彼をお人よしと見なす者も、単純な人間と見なす者もいなかった。自分は人々の裁判官にはなりたくない、人の批判なぞするのはいやだし、どんなことがあっても批判したりしない、と告げ、感じとらせるような何かが、彼にはあった(そして、これはその後、終生を通じてだった)。始終つらい悲しみを味わっていながら、いささかも批判せず、すべてを赦しているようにさえ思われた。

不満も批判も多い俺としては、こんなやついたらたまったもんじゃねーな、聖者だ聖者だ、と言い募りたくなるくらいなもんで、自分もこんな風になってみよーっと、と思って、今日午前中過ごしたら、もうどす黒い息を吐きたくて吐きたくてしょうがない感じっすね、と、まったく困ったものですなあ!俺って奴は。

さあ、出て来ましたよ、ゾシマさん。二回出て来るね。

そして、この道が彼の心を打ったのも、つまりはそこで、彼の考えによれば当代まれに見る人物である、ここの修道院の有名なゾシマ長老にめぐりあい、充たされることを知らぬ心の熱烈なはじめての愛情のすべてを捧げて心服したからにすぎなかった。

老人は、修道院の僧庵で行にはげんでいるゾシマ長老がこの《おとなしい坊や》に特別な感銘を与えたことを、すでに知っていた。

来るぞ、来るぞーってな感じね。

じゃあゾシマさん、まだよくわかってないけど、誰やる?

何歳なんだろ。

下手したら俺と同じくらいの歳かもね。負けた~。

何の勝ち負けか。

悟り開きて~。

いや、冗談はさておき、「僧庵」とかギリシャ正教の営みにどこか東洋的な用語を当ててるのが、ちょっと読みづらいといえば読みづらいけど、そんなの関係ねえ。

こう言っちゃなんだけど、結構読み終わるね。

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