クッツェー『マイケル・K』 〜Recycle articles〜

陽光のなかに出て、フェルトを横切り、貯水池と、かつて母親の遺灰を撒いた畑へと続く道をたどった。道端のどの石も、どのブッシュにも見覚えがある。貯水池へ着くとくつろいだ気持ちになれた。家の中では感じられなかったものだ。まるめた黒いコートを枕代わりにして寝ころんで休み、上方で空が回転するのをながめた。ここで生きていきたい、そう思った。ここでずっと生きていたい、母が、そして祖母が生きていた場所。じつに簡単なこと。こんな時代を生きるために、人が獣のように生きる覚悟をしなければならないなんて哀しいことだ。生きたいと思う人間は、窓から灯りがもれる家には住めないのだ。穴のなかに住み、日中は隠れていなければならない。人は自分が生きてきた痕跡を残さずに生きなければならない。そういうことになったんだ。


『マイケル・K』について、何か、書いてみたいと思ったけれども、かの内容に拮抗する言葉が出てきますかねえという自問自答に苛まれて、なかなか書き出せずにいた。

今も、実のところは、一つ一つの言葉を、岩山を登るように慎重に選びながら書いている。

書けないときは、書けないことを書けばよい、というのは、勝手に私が弟子入りしたつもりの人物の言葉だが、『マイケル・K』という作品は、そうした変化球で勝負してはいけないバッターのような気がして投げ込むことができない。かといって生半可なストレートでは容易く打ち返されてしまうと思う。

だから、このようにして、書きだすことをためらい、ためらいながらも、手探りで、何か引っかかる部分を探している。



マイケル・Kは、この小説の主人公だ。身体的な特徴のために、愛されず、母親にも半ば見捨てられた。事実、仕事も少なく、不安定な職につきながら、病気になった母を引き取りリヤカーに載せて、母が息を引き取る前に故郷に着きたいと、内戦下の南アフリカを歩きだす。

共感も同情も書けない。マイケルに感情をひどく揺さぶられているのだが、そのような感情を書いても、不完全燃焼だ。

「本当のこと、俺のことで本当のこと」あたりを気にせずそう口にすると、自分が興奮することに気づいた。

過酷な環境を何とか生き抜いているマイケル・Kが哀しいわけでもない。

世界が、『マイケル・K』の世界のようになりつつあるから不安がっているわけでもない。

マイケル・Kが自分のことを話したいのに、話しているのに、伝わらない。このような瞬間に、私は気持ちがかき乱される。

『マイケル・K』は、「本当のこと、俺のことで本当のこと」を探す物語だろうと思う。

内戦の中で「本当のこと、俺のことで本当のこと」を求める行為は、ドン・キホーテのような振る舞いだろう。

そういう意味で、マイケル・Kはドン・キホーテの末裔だと思う。そんなことを言うと差別だと言われてしまうかもしれない。

マイケル・Kは嘘もつけないし、本当のことも言うことが出来ない。なら人間は、何を話したらいいんだろう。それでも、話そうとするのは、なぜなんだろう。

彼と火明かりを隔てる距離よりもさらに大きなギャップ。いつだって、自分のことを自分自身に説明しようとするときはギャップが、穴が、暗闇が残った。それを前にすると彼の理解は立ちすくみ、いくらことばを注ぎ込んでも埋まらなくなる。ことばは呑み込まれ、ギャップだけが残った。彼の話はいつだって穴の開いた話だった、間違った話、いつだって間違いなんだ。

マイケル・Kに「本当のこと」なんてあるのだろうか。

収容所に入れられたマイケル・Kから話を引き出そうとする人々がいて、私はそれを半ば理解しつつも、どこか不満を感じる。

彼らの善意ゆえに、その乖離は大きくなる。

私も、作中の彼らと同様、マイケル・Kを「掴みかねる」のだ。掴めないのでもなく、掴みづらいというのでもなく、掴みかねるという感覚が一番しっくりくる。

そこにあるのに届かない。力の弱いUFOキャッチャーの手のようだ。

マイケル・Kを理解してやらなければならない、けれども、マイケル・Kを理解することもできない、というジレンマ。

感動したあと、不愉快になって、一気に読み終わったあと、雑に、この本を閉じる。

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