永井荷風「来訪者」
明後日に入院、翌日手術で、週末には何もなければ退院。準備もだいたい終えて、あとは、身を任せるのみ。まあ、そこまで大げさな手術ではないので、ここまで自分も大げさに書くこともないわけだけれども、数日間とはいえ、ただ寝ているだけの日々が訪れると思うと、ちょっとだけ楽しみでもある。読む本を見繕って、どれを持っていこうか、などと考えることで、多少の不安を紛らわしている。
横光利一の初期短編について書こうと思って、なかなか書けずにいた。その間に、2日間テントを張ったり、神宮球場にナイターを見に行ったり。
真夏に2日間テント暮らしは、暑くて、キツかった。その顛末については、あとで詳しくレポートしたいものだけれども、とにかく、夜が暑くてたまらなかった。おまけに最終日、チェックアウト前にバッテリーが上がるという事態に陥り、久々のJAF呼びに至った。情けない。
さて、永井荷風の「来訪者」だけれども、新潮文庫の復刊、『浮沈・来訪者』で、文字が旧字まじりで、いささか読むのが遅くなった。それと同時に、荷風の文字づかいが明治なので、色々とわからない部分も多かった。けれど、大変に面白く読めたので、感想を書こうと思えた。
この「来訪者」、昔話に出てきた原田(仮名)が学生時代好きだったと言っていた作で、その折から持っていた文庫なんだと思うけれども、30年越しに読むことができた。原田(仮名)の言っていたことが今ならわかる。そういう意味で原田(仮名)は、早熟な読書家だったのだろう。その後、ネットで署名記事を見かけたので、元気にやっているようだ。
私は、彼を裏切ったつもりはないのだけれど、彼は私を裏切り者だと思っているかもしれない。かつて親しくしていた人と、年を経て親しく話すことはできるのだろうか。そういう人は何人かいるけれども、その誰ともまだ、親しく話すことは出来ていない。
そんな思いを抱かせる「来訪者」だ。
*
荷風と思しき作家は、昭和の文壇から距離を置いていた。
ただ、ときおり親しく訪ねてくれる若者もいて、その一人を木場、もう一人を白井という。二人とも、金と作品を交換するサラリー文士ではなく、高尚な趣味としての文藝好みの実践者として、作家は頼もしく思っていた。
そんな木場と白井に心を許しつつあった作家。ただ、詳しく彼らの経歴を知ることもなく、だんだんと二人が訪れる回数も減っていった。
ある時白井にあって、木場の消息を聞くと、彼が妻帯していることが明らかになる。白井については、自分のことを話そうとしないので、わからない。作家も、詮索することを好まず、次第に疎遠になっていった。
ある時に、自身の若書きが市場に出回っていることを告げられた。おかしいと思い、原因を辿っていくと、どうやら木場と白井に預けた原稿が複製されて、本物として回っているらしいことまでがわかった。二人は、どうしてそのようなことをやったのだろう。
そして、起こったのは書簡の偽造事件。作家は、これは見過ごすことはできないと、偽造書簡を教えてくれた人と一緒に探偵に、二人の身辺調査を依頼する。
すると、白井にまつわる、数奇な事情が明らかに。
白井は、若い頃、隣の幼馴染との間に子どもを作り、結婚せざるを得なくなった。ただ、遺産を食い潰し、都内から、千葉、そして安房へと移り住んでいった。それで作家の元を訪れることも少なくなったとしれた。同時に金策として、偽造に手を染めたことも。
白井は、安房に住んだ家の隣に大家の未亡人が住んでいた。その未亡人である常子と浮気をしてしまう。それに気づく、長女の辰子。辰子はそもそも自分の年齢と父母の年齢が一般家庭と違っていることに悩みを抱えており、そのせいで、父の浮気を見つけた時、それは自分が生まれた経緯と同じではないかと疑いを抱いて、母に父に不義を伝える。
辰子と妻の花子は、いずれ、この家を出ていくことを決意する。白井は、最初それに気づかず、常子との逢瀬を楽しみ、東京に隠れ家を借りる算段までつけてしまう。家族は家をある時出ていってしまうが、それを機とばかりに東京で常子と暮らし始めたという。
それらの経緯を聞いた作家は、二人の元を何食わぬ顔で訪れることに決めた。木場を訪ね、白井の消息を知ると、作家は、その常子を見るつもりで、白井の家を訪れるも不在。そのまま、しばらく時間が経ってしまう。
ある時木場が作家宅を訪れ、そこで白井と常子の顛末を聞く。
常子は結核に侵され、白井が距離を取り始めると、次第に、気が狂い始め、有る事無い事大騒ぎをした挙句、白井を探して彷徨い歩いている中、交通事故で亡くなってしまったという。
その後、木場もパタリとこなくなるが、日米戦争が深まる中で、召集されてしまったのかもしれない、と終わる。
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このようなあらすじでは伝わらない妙味が、この作品にはある。
まず、常子の描写が凄まじく良い。美麗に描かれているというよりも、退廃的な雰囲気と、徐々に恨み言が増えていって、過去の前夫との関係も含めて、何かの呪いのかけられたように精神を病んでいくところの文章など、鬼気迫るような勢いだった。
プロットも、身辺小説的な流れから、探偵小説的に転調し、文壇の風刺や、江戸明治文藝の称揚、自身のカメラを離れての、探偵の報告文は、作品が入れ子になって、不思議な気持ちになる。そして、白井と駆け落ちした常子が、呪いにかけられたようにおかしくなっていく描写は、泉鏡花とは別種の、情念的表現の妙が楽しめる。
各種、葛西や松戸、国府台、千葉、安房、そうした東部の名所的な情景も織り交ぜながら語られる「来訪者」は、この短さでありながら複雑な作品に織り上げられていて、一度で把握することはできなかった。あらすじも、ざっくりと書いているので、本当はいちいち作品と照らし合わせたいのだけれども、そろそろ何かをアップしたいという気持ちに押されて、確認せずに書いている。
細部、手術終了後に、修正します。