川端康成『山の音』3「雲の炎」
それぞれの章につけられる小見出しは、常に不穏なイメージ、で統一されている。
この小説は、不穏な音や視覚的イメージをめぐるドラマである、と想像できた。
というのも、台風が近づき、それの対応で信吾と修一の父子が帰ってくる時に、菊子のレコードが外まで聴こえてくるシーンが、この章の雰囲気ひいては小説全体の雰囲気を決定していると思われるからだ。
何かが到来する予感と兆候を様々なものに見ながら、その到達を待ち続けるという漱石の『門』に似た主題を私は『山の音』に読み取った。
レコード、予兆、不吉と言ったキーワードを並べてみて思い出されるのは、内田百閒の『サラサーテの盤』だ。
サラサーテの弾くツィゴイネルワイゼンの中に録音されている奇妙な声を巡って、死んだ友人の遺品を返せという彼の妻の申し出と自分の記憶が食い違う話。音というよりは声だけれども、不吉なものとして音=声が作品の中で機能するのは相似的だ。
私たちは、様々な生活音をノイズとして処理し、ちゃんと聴こうとは思わないけれど、ノイズが繰り返されたり、規則的だったりすることで、意識の中に不意に浮かび上がる時がある。
川端は、家族の中にある不協和音を、現実の音になぞらえながら表現している。その手並みが鮮やかで、私たちは『山の音』だけではない音に注目せざるを得なくなる。そんな小説だ。
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台風が近づき、信吾と修一は早めに一緒に帰宅した。すると、窓を開けた部屋の中から菊子が流すシャンソンのレコードの音が漏れてくる。修一は意にかいさないが、信吾は菊子の心理を推測して狼狽する。家に入ると巴里祭の歌を菊子が口ずさんでいる。急に停電になり、音が切れる。海鳴りの音が迫ってくる。
寝床で房子の行く末と今後の方針について、信吾と保子が話している。保子は房子の婚家の問題を指摘するも、離婚を親に言い出させることに関する不満を述べる。また房子が荷物を纏めてきた風呂敷は自分のなくなった姉の肩身だといい、そこから保子の姉に対する思いが語られ、慎吾は閉口する。すると菊子が、台風でトタン屋根が飛んできたことを告げる。
翌朝出勤した信吾は、事務員の英子(谷崎)に、修一が通い詰めている女のことを聞いてみる。すると、どうやら、かなりの歳上で、しゃがれ声がエロチックであるそうだ。その晩は信吾も修一も早く帰り、寝てしまう。月の周りの雲が奇妙な形で燃えているように見えた。
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2、3章で目につくのは、川端が繰り返し、信吾の事務員の谷崎の乳房について、小さい、小さいと指摘するシーンだ。もちろん2章で、一緒にダンスホールに行った谷崎の外見的特徴を説明しようとして、そうした記述がなされることは、まあ、自然である。しかし、3章に至っても、その特徴が指摘され、それに相応しい着衣が云々と記述されるに至っては、それはやはり本質的な何かとして提示されていると読まざるを得ない。
それは信吾の沈潜している性欲のありかを示しているとも言える。しかしまた現実化されないまま蟠っている性欲であるとも言える。しかし、修一と着替えている時に見つけたキスマークのようなものは、なんだか信吾に嫌な感じを与えた。他人の性欲には、それはそれで憤慨する信吾がいる。
川端は文章がうまいと言われ、行間があると言われるが、この「行間」については思うところがある。二者の会話のコンテクストをかなり細かく詰めた上で、全部を説明させないように語らせている。この手腕が見事だ。ストーリーに関係ない細部の無駄が極めて少ない作家だといえる。
私自身は無駄な細部が作家の意図を超えて、作品の意味を増殖させていく作品が好きだが、一方で川端のストーリーテリングも、どんぶり勘定でやっているように見えて、緻密なのだと思う。ゆるいようでゆるくない。