志賀直哉「佐々木の場合」
短編「佐々木の場合」は1917(大正6)年に執筆され、『黒潮』という雑誌に発表された。有名な「城の崎にて」が発表された一か月後に掲載。志賀直哉34歳の作である。
雑誌『黒潮』は「くろしお」、第二号からは「こくちょう」と呼ばれたという。1916年から1918年にかけて、全19巻が刊行された。昭和初期にも同じ名前の雑誌があり、しかも志賀直哉が執筆したりしているが、承継関係はわからない。
長谷川巳之吉という有名な編集者・出版人が関わっていたことでも知られたという。のちに第一書房という出版社を立ち上げた。
そんな『黒潮』に「佐々木の場合」は掲載された。
佐々木という友人の経験談を聞いて、「自分」がそれについて思うことを述べる、という形式。
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佐々木は山田という家の書生であった時、5歳のお嬢様のお守りの少女・富に恋をしており、大きくなったら妻にしようと思っていた。富もそのときは悪くない心持ちだった。しかし、お嬢様に気兼ねがあった。お嬢様は、佐々木を警戒していたからだ。
佐々木は、富と時々あいびきした。無理を言って、お嬢様がいるのに呼び出すこともあった。富も、その強引さに辟易しつつも、隙をみてあいびきに応じた。
ある日佐々木は砂に文字を書いてお嬢様に気づかれないように、富を呼び出した。富はお嬢様を気に掛けながらも、あいびきに応じた。
あいびきの間に奇妙な音と叫び声がした。駆けつけると、富がいない間に、お嬢様は転び、気を失って、焚き火の中に倒れていた。お嬢様は、大きな火傷を負った。そして、富は責任を感じた。
実際、お嬢様の火傷はひどく、皮膚移植を必要とした。佐々木は、自分が申し出なければいけないと思いつつ、黙りこくってしまう。結局、任務不履行をとがめられて里に戻されそうになった富が罪悪感と贖罪の気持ちから移植の皮膚を差し出すことを申し出て、お嬢様の両親と和解した。
その後、佐々木は軍隊にいき、出世した。そして帰って来て、富と出会い、結婚の申し出をしようと思って手紙を書くが、断られるばかり。
佐々木は富が、火傷のせいなのか未婚のお嬢様にしたがって自分も未婚でいる、と手紙で送ってきたことに対して、アレコレと憤懣や悩みを「自分」に述べるが、佐々木もまた未婚のまま過ごしている。
「自分」は、その佐々木の語る富に対して、佐々木が言うほど悪意を感じず、むしろ潔さのようなものを感じている。佐々木にも「自分」は言いたいことがあるが、佐々木の思いの過剰さを感じると、何も言えなかった。という話。
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この作品、献辞が漱石に捧げられているが、この謎を下岡友加氏が論文で書いている。道義を果たすことなく富の下から逃げた佐々木が、その贖罪として富に求婚するも、富に拒否されつづけることで罰せられる、という構造は、漱石に作品を約束しておきながら、漱石が他界するまで、自身の感情によって書き上げられなかった志賀=佐々木を指し示しているという(下岡 2006)。
道義的な罪が許されないまま耐え続ける主人公は『門』に典型的だが、志賀の存在を読み込むこともさることながら、漱石に捧げる内容として、同時期に書いていた『城の崎にて』より『佐々木の場合』がふさわしいというのもわかる。
文体の面で、この作品、志賀の他作品と比べ読みにくさを感じたが、漱石的な書き方を踏襲したものなのだとすると、なるほどと思わせられる。
二回読むのがいいと思う。
ゆっくり一度読むよりも、最後まで一度サクッと読んで、さて、人物関係を再度確認しつつ読むのがいいと思った。
ちなみに、新聞記事で、逃げちゃった書生の報道をみて、着想したそう(下岡 2006)。
面白いですね。