遠藤周作「日記(フェレイラの影を求めて)」(『切支丹の里』より)
フェレイラとは、名をクリストヴァン・フェレイラといい、江戸時代初期の偉大な宣教師として名を馳せたが、捕縛ののち拷問に際して、棄教し仏教徒として生を長らえた人物であり、遠藤周作が『沈黙』執筆の際に、参考にした人物でもある。ただし、実際のモデルはジュゼッペ・キアラだとされている。
ちなみに『沈黙』とは、禁教下の日本に潜入したロドリゴという宣教師が、様々な苦難をなめたのちに棄教するまでの心理的葛藤を描きつつ、殉教と転向の是非について、遠藤自身の立場が明快に示された小説として有名である。
『切支丹の里』というエッセイ集は、『沈黙』執筆の取材旅行のことなど、裏話の詰まった内容となっている。
私はかつて、『海と毒薬』『沈黙』のみで遠藤周作を済ませてしまったというやましさを抱えていた。いや、もちろん、そういう人は多いと思うが、のちに『深い河』『侍』『月光のドミナ』などを読んで、手法論の立場から切り捨ててしまっていた遠藤作品の面白さに気づいたのである。特に『月光のドミナ』は、品行方正な老若男女にはおすすめできない、毒のような話である。
その遠藤マイブーム期に、『沈黙』を再び考える機会を与えられ、マーティン・スコセッシが作った『沈黙』を、忘れもしない六本木ヒルズの映画館に見に行ったのである。
スコセッシの『沈黙』は、その後が比較的多めに描かれ、棄教の瞬間を相対化して物語にしようという意図が感じられた。私がよく見る『ギャングオブニューヨーク』もそうだが、ヒロイックな栄光の瞬間を脱臼させながら、ほろ苦い人生のペーソスと無慈悲な歴史の変動の対比を、じんわりと感じさせてくれる監督らしく、『沈黙』からまたそうした味わいに魅せられた。
本来『切支丹の里』全体の感想としても、全く問題がなさそうだが、「日記 (フェレイラの影を求めて)」だけにフォーカスした理由は、この棄教者に対する遠藤の優しい視線ゆえである。『沈黙』を書くにあたって、キアラの前にフェレイラが前例としていたからこそ、キアラもまた説得に応じたのではないか、という推論が底流に流れており、そのためか最初の棄教者として遠藤はその意識の推移に注目している。
ただ、彼の心境の変化を映し出すものは一つも見つからず、結局、小説内で披露された棄教を合理化しようとする論理は、遠藤が推測したものとなっている。それは当たっているかもしれないし、もっと単純なものかもしれない。
こうした江戸時代初期の宣教師たちの殉教/棄教体験は、現代に生きる我々にとっては、異質なものかもしれない。私自身、死や受苦が光栄として感じられる、という情熱は、理解はできても共感はしづらいものだ。ちょっと、足つぼを押されただけでも、苦痛で泣き出す自分としてみれば。死や痛苦はできるだけ避けて、安楽に生きていきたいと思う。
しかし、一方で、信仰が生物的な本能を乗り越えることもある、という事実について、それがある種の人間的現実だと興味深く感じる自分もいる。文脈をたがえれば、思想が生物学的な本能を乗り越えて働きだす、そして、その働きを正義だと思いなすことも。
文学部には、当然過激的な左派が当時もおり、教室の封鎖などが行われたこともある。授業の開始前に入ってきて、議論しようみたいに投げかけ、右派の学生ともみあいになることも時折見かけた。保守と改革のせめぎあいは、色々な学びを私に与えたものだが、運動論になるとどうしてもついていけなかった。
思想の実行のために生活を組織しなおす、という割と素朴な運動論が基礎にある左派の同級生のことを思い出すたびに、フェレイラの方に同情し加担してしまう自分がいることに気づく。いいじゃん、安楽に生きようぜ、と思いながらここまできてしまったけれども、その安楽すらも脅かされている昨今、40代として何をしたらいいのか、迷っている。