読まない方がいい・ブレッドウィナー・俺も同じ ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』40~
重苦しい展開である。こちらもシリアスにならざるを得ない。得意と言えば得意だが、そうしたダークな感想を書き記してしまうと、私は構わないが、読む人に悪影響を与えることもある。読まなければいい、と思うが、具合が悪くなっても食べたい食べ物があるように、一瞬の心地よさを求めて、ダークなものを読みたくなることがある。人はなかなかに矛盾した生き物である。
『ノルウェイの森』が別離の話だとすれば、『ダンス・ダンス・ダンス』は死の話である。舞台に入ってきて(生まれて)、踊って(生きて)、舞台からまた出ていく(死ぬ)という身も蓋もないイメージが、主人公の周りには濃厚に漂っている。五反田くんの自殺によって、「僕」はこのイメージを強く想起する。
別離は新たな生でもあるが、死はただ蓄積する。生物学的な無意味さのようなものに対して、「僕」はどのように抗うのかを考える。単に舞台で踊り、出ていくだけが、人生なのであれば、それをどのように輝かせたらいいのか。五反田君は、女にはモテたし、それなりに有名な映画俳優として名も知れていた。贅沢な暮らしであったし、不自由はなかった。しかし、それでは絶対的な無意味さから逃れることはできなかったのだ。
『ブレッドウィナー』というタリバン政権下の一家の話を描いたアニメがあって、不条理さは『ダンス・ダンス・ダンス』よりも強いものだけれども、それでも、なんらかのタイミングで人は舞台に押し出され、その舞台でダンスを踊るしかないという思いを抱かせる物語という点では共通している。「よく生きる」、「生きる」、「生き延びる」という生の状況の差異はあるのだけれども。
「申し訳ございません」。少々の遅延で、繰り返される謝罪の言葉がたまらなく苦手である。言っとけば感じの悪くならない状況は確かに多くあるけれども、遅延の原因は、自然環境だったり、安全面の維持だったり、急病人介護だったり色々あるのだから、繰り返す必要はない。繰り返されるたびに、自分のためにする謝罪の言葉の意味が強くなっていく気がする。
この『ダンス・ダンス・ダンス』の40章は、当然直接的な関係が見出しにくい人の死の要因について、実のところ、誰の責任でもないし、誰の責任でもある、という不思議な状況を描いた部分なのではないかという思いを強くした。そういう意味であれば、『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田君の死も、『ブラックホーク・ダウン』の戦争での死も、『ブレッドウィナー』における理不尽さも、誰のせいでもなければ、誰のせいでもある。
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消えた五反田君のマセラティが芝浦の海から発見された。
「僕」は刑事の「文学」に呼ばれて、調書をとった。五反田君の死は「僕」のせいではないことははっきりしていたけれども、「僕」はどこか疚しさを抱えることとなった。
五反田君がキキを殺してしまった気がする、ということは言わなかったし、メイの死の犯人もまだわからないらしい。
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昔、こうした文章を書いていたら、ある人に、「悩んでいるふりをして、人に疚しさを感じさせようとするのが疲れるので、フォローははずさせていただきます」と言われた。一方的だった。そういう意図はなかったが、そういう風に受けとられる可能性がないかといわれれば、ないわけではないことは理解できた。
私は悩んでいるふりをして、別のことをやり始めればそれは忘れてしまうことも多いので、モードチェンジするのにさほど苦労はしないのだが、確かに、他人の文章のネガティブさを体全体に浴びて、にっちもさっちもいかなくなる人もいることはわかる。だから、フォークナーのときもそうだが、深刻な話を読んでいると、深刻な内容になってしまうことが多い。
昔の後輩と電話をした。その後輩は、卒業後、お金の世界に入り、それなりに財をなして、悪人に騙されて、今は借金生活をしている。その過程で、体を壊して、しばらく入院していたということを聞いていて、本来はそうした世俗にまみれた生き方をするような人間ではなかったのに、無理をしすぎているし、そして、無理ができる人間だったのだと思って、昔のように現代思想の馬鹿話でもしようと思って、電話をかけたのだ。
思ったよりも元気で、30分くらいだが、ふだん囲まれている人とは絶対にしないような話題に花が咲いた。「すみません、僕病んでます」と言っていたが、「安心しろ、俺も生まれた時から病んでるから」と言っておいた。
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