日曜日の深夜・南麻布・蕩尽 ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』25~
夜、寝る前の村上春樹は、酒が飲みたくなるので、避けた方がいい。
強い酒を飲みたくなる。
バーボンとか、そういうやつだ。
体を壊して以来、ハードリカーはなるべく飲まないようにしているが、時々、年に12回くらい強い酒を飲みたくなることがある。
明日から、また日常なのだ。要するに、今日は日曜日の夜。いささか寂しい夜だ。
そんな夜に村上春樹を読むと、急に部屋の掃除を始めたくなる。始めてしまうと片付くまで、深夜までおよぶ。それでは明日に響く。
日曜日の夜は物悲しい。若いときは、日曜日の深夜から市場で勤務だったので、この時間は出勤前だった。若干眠いが、外の空気にあたると眼が冴えて来る。そんな記憶を、今でも体は覚えているのかもしれない。
かつては築地市場だったが、現在は豊洲市場。初日は5日だ。
31日にすべての商品を売り切って、初日に備える。仕入れと荷運びが、かなり大変な一日になる。今年は5日が初の市らしい。
練馬に住んでいたころ、埼玉に戻ったころ、麻布十番に住んだころ、色々な時期に、時には正社員、ときにはアルバイト、ときには契約的な扱いで、働いていた。私の当時の勤務形態は、普通の勤め人には常軌を逸すると思われるはずである。
ただ、無茶をしていた20代後半のころは、今思えば、本当に懐かしい。無茶といっても、ただ、むやみに働いていただけであり、悪いことや人倫に反することをしていたわけではない。ただ、ひたすら働いていた。
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今も仕事で赤羽橋付近に行くので、縁がある土地なんだなと思う。と言っても、2001年の南麻布に私はいた。とある編集プロダクションに契約社員的な扱いで、いつか正社員にしてあげるという甘言を信じて、昼夜なく働いた。職場の近くに住まないとやってられないということで、南麻布のマンションを借りた。
新築で、比較的高層階だったので、家賃は高かったが、編集プロダクションの仕事と、黙認されていた市場での引き続いてのバイトも含めて、案外収入はあったので、計算するとトントンになった。
今まで、東京で住んだことがあるのは練馬区だけだったので、かなり都会に来た感じだった。けれども、南麻布でも、古川橋の方で、ドブ川の方だったので、背後には三田のちょっとした商店街があり、意外な下町感があった。
六本木とか広尾とか白金台とか、妙にお高い空間があると思えば、下町っぽい風情を残しているのが、麻生十番界隈だった。変貌しつつある中でも、後年ふたたび芝5丁目に引っ越してくるように、好きな街の一つである。家賃がもっと安ければいうまでもない。
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ユキの父親である牧村拓の家から、ユキと二人で辞すことになった。執事の人が送ってくれた。その帰り道に、牧村が言った、ユキの面倒を見ててくれという話を、ユキに切り出した。
同居と監護という点について、離れて暮らし、会いたいときに電話するという形式でやったほうがいい点について、「僕」はユキにはなし、ユキも同意した。
ユキは若干、期待外れな空気を出したが、「僕」はそれを冗談や軽口でいなした。
家につき、「僕」は様々なメンテナンスをして、一日を過ごした。
そして、五反田くんに電話をする。二人に関係の深い女性が殺されたこと、警察が動いていること、すぐに会って話したいこと。
五反田くんは、スケジュールが立て込んでいることを理由に、難色を示したが、「僕」は強く迫った。しぶしぶ五反田くんは了承した。
深夜に、五反田くんから電話がくるという。
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麻布十番時代と言っていいかもしれない、たかが2年間。
六本木ヒルズにルイ・ヴィトンの店舗が開業したこともあった。
この2年間は、朝働き、昼に編集部に行き仕事をして、夜遅くまでかかることもあれば、割と早く終わることもあった。都内を自転車で回り、古本屋や図書館の除籍本を漁り、人と飲んだりするのも自由、何を食べるも自由、フラッと出かけるのも自由。そんな時代だった。学生時代とは違い、そこそこお金もあった。
私のマンションの近所には、日比野克彦さんかひびのこづえさんかが内装を手掛けたThe Tokyo Restaurantというのがあって、特別な日はそこで食事をすることにしていた。今の妻と出会い、松本に行くと決めたときも、そこで食事をした。12年後、戻ってきたら、もう閉店されていた。
そのレストランが入っていたビルには、何でもやる中国人の医者があった。私が体調をくずし、ふとんの中で粗相をし、調子が悪いまま、そこに医者で臀部に注射を打ってもらい、マンションに戻ったら鍵を忘れて出ていた、なんてこともあった。どうやってはいったのか覚えていないが、蕭々と雨の降る日だった。
私はたぶん、バブルに憧れを抱いた最後の世代になると思う。二浪したことで、就職氷河期に入って、辛酸をなめたが、私の同世代で、現役で大学に入った人たちは、アジア金融危機の直前に就職活動をしていたので、なんとか色々なところに滑り込んでいた。そうした高下駄も履けなかった。しかし、変にバブルのイメージだけを追い求めてしまった。
住む場所に麻布十番を選んだのは、バブルのイメージを追い求めたからではないと思う。しかし、かつて麻布十番のマハラジャがあったところなどが、変化していたことを確認したりしにいったり、今は名前が色々変わったりしたみたいだけど、グリル満点星や麻布図書館に行くあたりの角のビルの地下にあったクラブ、当時はLuner̈sって言ったっけ、そんなところに行ったりしていた。
反動、ということだろうか。堅実に生きるという選択肢もあったが、一時期、無駄に蕩尽した時代もあったのだ。これを遊びというなら遊びだが、今までの生き方への復讐と言えば、言えた。未来のことなど、考えなかった。
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日曜日の夜には、どうにも、つまらない思い出話が出てしまうものだ。