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孝の熱き時代 ~齋藤孝の研究3~

皆さんは、私を齋藤孝の批判者だと読まれるかもしれない。確かに、なんだか揶揄めいた言葉を書きつけることもしばしばあるから、そう読まれることを拒否するつもりはない。けれど、私は初期の孝の熱き心を、高き志を知っている。今回は、2002年に第1刷が刊行された齋藤孝『読書力』(岩波新書)をもとに、孝のモチベーションについて書いていこうと思う。

このころの孝は、今のように、読者に優しく語り掛ける文体ではない。

私自身が、自己形成において多大な恩恵を読書から得てきたということももちろんあるが、それだけでなく、「読書力」は日本の地力だからだ。私は、この国は読書立国だと勝手に考えている。国家にこだわっているわけではない。自分の生きている社会の存立基盤を考えると、読書を核とした向学心や好奇心が実に重要なものだと思えてくるのである。

実に、明確に、男性的に、「思いのたけ」が述べられている。現在の優し気な孝の眼付からは、想像もできないくらいに42歳の孝は、理想に燃えていたのだといえる。

読書力に対してあまりに熱く語るあまり、行き過ぎた表現もあるかもしれないが、そこは真意を汲み取っていただき、ぜひとも〈読書力〉を一緒に盛り上げていってほしい。そのシンプルな思いで、この本を書いた。

真剣勝負である。ガチンコで迫ってくる孝の顔がそこにある。飲み会で、いきなり、そんなことを同級生に言われたら、くそめんどくせえ、と思う、そんな熱さがすでに『読書力』のまえがきにはみなぎっている。

みんなこの一文を読んでほしい。

私がひどく怒りを覚えるのは、読書をたっぷりとしてきた人間が、読書など別に絶対にしなければいけないものでもない、などと言うのを聞いたときだ。こうした無責任な物言いには、腸が煮えくり返る。ましてや、本でそのような主張が述べられているのを見ると、なおさら腹が立つ。自分自身が本を書けるまでになったプロセスを全く省みないで、易きに流れそうな者に「読書はしなくてもいいんだ」という変な安心感を与える輩の欺瞞性に怒りを覚える。
本は読んでも読まなくてもいいというものではない。読まなければいけないものだ。こう断言したい。

42歳。厄年だったかもしれない。男性更年期のスタートだったのかもしれない。孝、非常に怒っている。ただ、私は、そう言われて、ああ、怒られちゃったなと思う。私も、「読書はしなくてもいい」という趣旨のことを、つい言ってしまうことはある。ただ、私が念頭においている読書とは、人に言われてしぶしぶ読むような読み方で読書するという行為のことである。

孝の読書基準は、この『読書力』では結構高めに設定されている。何を読んでもいいというわけではない。「精神の緊張を伴う読書」、これが孝の「想定している読み方」である。これ、賛否両論あるものではないか。そんな妥協のない主張を、42歳の孝は行っていたのである。

小学生でも読めるあまりにも楽しい読み物は、ここでは除くことにする。そのため、星新一のショートショートは質が高いが、ここでは数に入れないことにする。ヘッセや漱石の作品のような名作は、もちろん問題ない。司馬遼太郎の小説あたりが、ちょうど境界線になる。歴史小説は、様々な人物像との出会いもあってよいのだが、場合によっては推理小説と同じように、完全な娯楽としてはまりこんでしまうことである。

のちに詳しく『読書力』を読んでいくとわかるのだが、孝は、文庫に入っているような不朽の名著を、「精神の緊張を伴う読書」にしており、同時代の作品については、あまり顧慮しないようにしている。そのわりに、巻末の100選においては町田康の『くっすん大黒』をエントリーさせていて、それはそれで面白いのだが。

また、孝は文庫系と新書系にわけ、それらの読書経験の理想形を次のように書く。

文庫系と新書系をあえて分けるならば、文庫系の方が先に読書習慣に入ってくるのが自然だろう。文庫系の読書をまったく経ずに新書に突入する場合もあるかもしれないが、それは少数派である。基本的な順序関係として言えば、文庫系をひと通りこなした後に、新書系の読書が折り重なってくるということになる。時期的に言うと、中学高校で文庫本に馴染み、高校の終わりから大学二年くらいまでが新書時代となる。これがかつての新書との出会いの基本的イメージだ。

まあ、わかる。まあ、わかる、と言える自分を顧みると、どうだろう、孝は読書を全然しない層に読書を届ける気持ちがこの時期あったのかどうかだ。この「基本的イメージ」は、正直、旧制中学程度の学力の高校生に、おそらくは基づいている。ネット社会においては、これすらも、もはや維持できてないだろう。

ただ孝の「その本は読んだ」基準は、割と甘い。

私の基準としては、本を読んだというのは、まず「要約が言える」ということだ。

え、甘いの?と思われるかもしれないが、孝は次のように言っている。

もう一つの理由は、読んだということの基準をあまり厳しくすると、本をたくさん読みにくくなるからだ。もし全頁を読んだことが条件になるのだとすれば、どうしても数は少なくなる。途中で行き倒れる本があるのは自然なことだ。百冊買ったならば、最後までいく本が二割程度でもおかしくない。残りの八割がゼロかと言えばそういうことはない。

この『読書力』で重要なのは、「序 読書力とは何か」である。この「序」が50ページ近くあり、以後の「Ⅰ 自分をつくる━自己形成としての読書」「Ⅱ 自分を鍛える━読書はスポーツだ」「Ⅲ 自分を広げる━読書はコミュニケーション力の基礎だ」と同等の分量を持ち、重みは一番ある。この「序」の全てが、孝の熱き心の全てを表している。

孝は、文庫百冊と新書五十冊を四年で読み通すことをハードルとしている。これは重いのか軽いのか。結構微妙なラインで、そういうところの設定はこのころから上手である。

百冊というのは、大ざっぱに言って、月二冊で四年、月四冊だと二年かかる数字だ。中学高校で文庫系を三、四年でこなし、それに続いて新書系をこなす。これが、知力のトレーニングとして日本人の当然のメニューになれば、この国が地盤沈下するという不安を払拭することができると考えている。いまや中高生ではない年齢の人にも、四年を目安に始めていただきたいと思う。

じゃあ、どんな百冊なのか。それは巻末に書いてある。これが、なるほど面白い。ただ、これは本来各人に選択は任されているとし、「参考として」みていただきたい、ということのようだ。ちょこちょこつけられているコメントが、ビビる。

例えば、「6 つい声に出して読みたくなる歯ごたえのある名文」の⑦川端康成『山の音』には「⑦私は菊子の美しい話し言葉が好きでした」。なるほど。また「9 不思議な話」の中の③夏目漱石『夢十夜』には「③子どもでも読める」。エーっ。「10 学識があるのも楽しいもの」の中の①和辻哲郎『風土』には「①明晰な論理はセクシー」。セクシー、進次郎!。

「14 こんな私でも泣けました・感涙は人を強くする」は、一番面白かった。その中の⑤井村和清『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』は、私も読んだことがあるが、いい本だったと思う。ドキュメンタリーもテレビでやっていた記憶がある。私は、ノベルスみたいな形式で読んだはず。

最後に全人類必読の一冊をプラス。『いしぶみ 広島二中一年生全滅の記録』(ポプラ社文庫)

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