バレンタインデー・無駄・オノヨーコ ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』 29~
村上春樹世界に戻ってくるのは久しぶりである。というのも、29章は、とても長く、まとめるのも骨が折れそうだったので、読むのをためらっていたら、少々時間が経過した。その時間の間に色々なことが起こって、29章にとりくむことを妨げたが、やっと、読もうという気持ちになれた。
28章を読んだのは1月7日だった。現在は2月11日だ。約一か月経っている。もうすぐバレンタインデーである。
バレンタインデーとは、私が生まれたときから、女子が好きな男子にチョコを渡す日だった。余計な日を作ってくれたと思う。それ以来、チョコレートは嫌いである。
私はバレンタインデーにチョコレートをもらったことはない。妻からもない。妻はそもそもそういうタイプの人間ではない。もっと合理的な人間であり、私もそれに一時期感化された。だから、それ以前もそれ以降も、バレンタインデーにチョコレートをもらったことはない。
気にしていないかというと、成人式に出ていないことに比べたら、気にしている。世の中には、10個も20個も、見ず知らずの女子からチョコレートを貰う男子がいる。私の小学校は、教室の後ろにランドセルを入れるロッカーがあり、そこに個々人のランドセルが置かれている。2月14日に平日だと、昼休みに外で遊ぶのから帰ってくると、その男子のランドセルには、たくさんのチョコが入っているのを、うらやましく思ったものである。
中学時代、高校時代、同じように人に好まれなさそうな同級生に、バレンタインデーの話をすると、そんな連中でも、生涯に一度や二度くらいは、愛の告白の象徴であるチョコレートを貰った経験があるという。嘘だろ、と思いつつ、好かれない自分という思いを抱えながら、思春期を通り過ぎた。思春期を過ぎると、それなりに金も経験も積み、気持ちに余裕が出てくる。モテはしなかったが、付き合うということもあったが、なぜかチョコレートを貰うことはなかった。
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29章は、ハワイでユキの母親のアメに「僕」とユキは会いに行く話が書かれている。アメの家に行くと、同居している片腕の詩人の男性が出る。ディック・ノースというらしい。ディックには妻も子どももいるのに、アメの人を惹きつける力にやられ、家と子どもを捨てて、祖国にも帰れない。そして、ハワイのアメの家に同居している。
アメは、「僕」に、ユキをたまには連れて来てくれ、と頼む。友達になりたいのだ、という。「僕」はアメに、ユキに対する母親としての責任を述べるも、アメは理解しない。ユキとは、血のつながった友達になりたいのだという。平行線だ。
ユキを連れて、アメの家を辞し、帰る途中で、ユキは泣いた。そして、「僕」とユキは飯を食べ、別々の部屋に行った。夜半、ある女が「僕」の部屋を訪ねて来る。ジューンと言った。どうやら牧村拓が寄越した、プロスティテュートらしい。押し問答の結果、「僕」はジューンと寝た。
朝、ユキが「僕」の部屋に来ると、露骨に不機嫌になった。「僕」は一連のことを説明した。ユキは不快を表明し、それは良くないことだと断言した。「僕」はユキを発言を深く理解し、のちにユキに謝った。もうやらない、と誓った。ふと、「僕」は離婚して出て行った妻とのやりとりを思い出す。
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大人になるとバレンタインデーはただの儀式になる。7人の同僚から義理チョコを送られて、返さないといけなくなり、7人にそれぞれ買うことになる。7人は、1人だが、私は7人分を購入する。最初は、義理であっても、一応返そうとしていたが、ピエール・マルコリーニを7人分、一番安いものであっても、それなりの出費になる。私は、心の通わない儀式は嫌いだ、と申し渡し、義理だろうと何だろうと、チョコは拒否するようになった。
可愛げのない人間だったのだと思う。
物分かりのいい人間のようにふるまっているが、きっと、下の子がバレンタインデーのチョコレートを手づくりしようと試みようものなら、烈火のごとく怒るに違いない。無駄である、と。思春期における恋愛など、無駄である、と。それは私のルサンチマンに基づくただの逆恨みだと思ってはいるものの、私は思春期にチョコレートをもらっていながら、その愛情を踏みにじる男を少なからず目にしているので、ついそう思ってしまう。
久しぶりの『ダンス・ダンス・ダンス』なのに、つい関係ない話に話題が及んでしまった。ちなみに、ユキの母のアメは、どことなくジョージア・オキーフやオノ・ヨーコの風情がある。女というパッケージをナチュラルに着ることのない人間。それが、もしかしたら、ある種の男には魅力的に映るのかもしれない。
オキーフはともかく、オノ・ヨーコについては、正直よくわからない。リアム・ギャラガーとの子どもの名前をめぐるやりとりなどを聞いても、とりあえず、お互いに適当なことを言っていれば、大物感が出るという理解しか、及ばなかった。だから私も、偉い人、変な人と会うときは、自分も変な人の仮面をかぶっていく。
相手の予想を裏切り続けていると、ときおり功を奏することもこともあるし、完全にどっちらけることもある。「どっちらける」という言葉は、接頭辞の「どっ」に、「シラケる」がくっついて、最上級のシラケるだと思っていたら、萩本欽ちゃんがつくった言葉だと知った。ネットの力である。
ところで、最近私もChatGPTを使って、様々な問いをAIに向けて発するようになった。すると、だんだん、回答が洗練されてきている。2045年の特異点の前に、AIは人間を知能の上で超えていくのではないかと思った。しかし、AIの最終的な到達点がオノ・ヨーコなんだとすると、どんどんAIを進化させて、オノ化することで人間はAIの暴虐から逃れることができるのではないかと思った。ラブ&ピース。
でもオノ・ヨーコの愛読書は『三国志』と『西遊記』だという。これに感銘を受けて、紀里谷和明さんは、尊敬する人物に「諸葛亮孔明」と言ったのではないかしら。私も、尊敬する人は誰ですかと言われたら、ジャン=ポール・ベルモンドと言っておくことにしよう。
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