なぜタイトルが「山の音」なのか? 川端康成『山の音』総括 1
「『山の音』、今読む価値ありますか?」と、私の周りにいる若者は聞いてくるかもしれません。
どう答えるでしょうか。
「今、と言われると難しいな。いつかは読んでみるといいとは思うけれども、若いうちは共感はしづらいかもしれないな。だから感情移入をベースにして読むなら、今はあまり読む必然性はないかもしれない。もっとアイデンティティを仮託できる登場人物がいる小説の方が楽しめるだろう」
と答えるかもしれません。
「戦後文学最高峰」という評言もあります。日本文学なのか、日本近代文学なのか、戦後文学なのか、現代小説なのか、川端文学なのか、色々なカテゴリーが考えられますが、小説の完成度としては特異なものがあると思いますので、小説の「作劇法」についていろいろなパターンを知りたい向きについては、「読む価値」はあると思います。
シャッフル可能なストーリー
「作劇法」と言いいましたが、プロットのことだけではありません。どちらかというと、小説の中の「時間」の流れ方に近いといえます。要するに、この16章を16枚のカードに例えるならば、カードをシャッフルしても成り立つ小説が、『山の音』の特異性なのだと言えます。
映画との比較については別稿をしたためるつもりですが、映画では原節子=菊子が家の呪縛から逃れる意思を手に入れるプロセスを、話の筋として通しているように見えました。
意思的な堕胎は、子どもという呪縛を切り離す行為ですし、信吾は完全に援助者として設定されて、子どもはまだ産めないのかと騒ぐ保子らに対して「子どもを縛る道具にするな!」と原作にはないセリフを信吾に言わせておりまして、最後の数章の順番を入れ替えた上で、「都の苑」をラストシーンに置いていたりします。
そこで述べられる内容は、原作の16章の「別居しなさい」が、より強い表現に変えられています。この「脚色」は、他の登場人物のストーリーを切り離し、菊子の物語に変形させるために行われているといえるでしょう。
小説では毎章反復されるイマージュも、映画では大胆に省略されておりまして、その代り菊子を呪縛する言葉としての「きっこ、きっこ、きっこ」という他の登場人物が発する呼びかけの魔術的反復だけが、気になる音として強調されているように感じました。
このように映画は後半部分のエピソードをシャッフルしています。それでも、この小説は成り立っているわけです。
この入れ替え可能な全16章のエピソードが、日常という反復する時間の中で、時折現れる揺らぎとその回復のドラマとして提示される物語。
この川端の「作劇法」を学ぶために読むことには価値があると言えます。
なぜ、タイトルが「山の音」なのか?
この全16章、それぞれに登場する独特なエピソードにちなんで、同じ資格の言葉が小見出しとして付けられています。
ちょっと並べてみましょう。
1山の音
2蟬の羽
3雲の炎
4栗の実
5島の夢
6冬の桜
7朝の水
8夜の声
9春の鐘
10鳥の家
11都の苑
12傷の後
13雨の中
14蚊の群
15蛇の卵
16秋の魚
この統一は、意図的なものでしょう。
統一されているのですから、それぞれが同じ資格であり、「山の音」も例外ではありません。ではなぜ、小説のタイトルに「山の音」を選び出したのでしょうか。
実際、この小説には山が頻繁に出てくるわけではありません。
鎌倉という地形は確かに山がちではありますが、信吾の故郷の信州からすれば、丘みたいなものです。小田原や伊豆ならともかく、鎌倉の山は山ではありません(失礼)。
実際、信吾も、海の音ではないかと勘違いしている場面もあります。
だとすれば、この山とは何でしょうか。
第1章では「地鳴り」のようなものとして「山の音」は現れます。「地鳴り」は、自然の働きを象徴するものであります。自然。まずはこれが「山の音」が含意する事柄ではないでしょうか。
傍証として、信吾は山国である信州をルーツとしており、房子は子どもを連れてそこに一時身を寄せます。「山」とはまた、この家族が拠って来たる場所、すなわちルーツを含意するといえないでしょうか。
さらに、「地鳴り」は地盤の沈降隆起褶曲と言った運動から帰結する火山活動を連想させます。日本はこうした自然の中にある国土だともいえます。
今回、この小説には三つの物語が含まれています。
菊子と修一、房子と相原、そして信吾と保子。三つの夫婦の問題は、すでに問題自体が死んだ死火山、問題自体が休んでいる休火山、問題自体は噴出している活火山と三つのパターンにパラフレーズできると思ったのです。
夫婦関係とは火山=自然のようなものであり、その問題が噴出する予兆としての音、これが「山の音」を他のメタファー的タイトルを押しのけてまで小説のタイトルとなった理由ではないでしょうか。
思いつきですが。