有徴性・自然・肥満児として ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』39~
出勤途中の石畳の上に、力無く飛んできた蝿が一匹、休息を取るようにとまった。私の進行方向であるのみならず、ちょうど歩みを進める場所にとまったため、そのまま踏み潰してしまうこともできた。気づかなければ、運の良し悪しにもよるが、踏み潰してしまっていたかもしれない。しかし、気づいた。少々考えて、歩みを狭め、踏み潰さなかった。
『蜘蛛の糸』のようでもある。けれども、鶴でも地蔵でも、なんでもいいが、善行が直接報われることは少ない。バイキンを媒介する銀蝿だからして、踏み潰してしまった方が、社会の益になっていたのかもしれない。しかし、踏み潰すことはなかった。踏み潰してしまおうか、と一瞬考えた自分にも恐ろしさを感じた。
今日から、上の子が班長の新しい班になる。件の少年は一年たって、歩みの途中でイタズラを繰り返すことは変わらないものの、力強く学校まで行けるようになった。これを成長と言わずなんと言おう。しかし、昨日、その子がたまたまなんの拍子かわからないが、靴下を脱いでしまったらしい。その足を見て、上の子は、驚いたという。要するにSyndactylyということらしい。
上の子は気落ちしていた。あんなに急げと言わなければよかった、と。しかし、そのことを公にして、助力を願うのか、願わないのか、は個人の尊厳の問題である。逆に、気を使ってしまう方が尊厳を傷つける場合もあるわけだし、そのことは、気に病まない方がいいと伝えた。
私は班編成の最初期から、下半身の成長のバランスが悪く見えたので、なんらかの問題は薄々感じていた。だから、最初の頃、ついていき、諍いが起きたり、ハブられたりしないように、色々気を遣った。そのことは間違いではなかったと思っているが、そうした情報をオープンにした上で、関係を築くのか、オープンにしないで自然に任せるのか、は本当に個人の微妙な判断だろうと思った。どっちを選んだとしても、それは正解だし、不正解にもなりうる。
上の子と、例の近所のママさんの息子は、気づいたが、特に言及せずに流したと言っていた。「僕たち、それでも学んでるからね」と言っていた。悩ましい問題である。この言葉をどのような意味で解しているのかわからなかったので、言葉をつぐことはできなかったのだが、こうしたエピソードは長く記憶していて、その都度思い出してほしいものだと思った。
有徴性の認知に対して、どう接すればいいか、ということは微妙な問題である。日本においては、この有徴性ができるだけないことを標準とするスタンダードがある。それは果たしてどうなのだろうか。有徴性だらけの社会の方が、場合によってはいいのではないか。とはいえ、結局のところ人は何らかのパーティーを組むことになるのが歴史の常なので、そのパーティー同士のコンフリクトは避けられないのではあるが。
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「僕」は気持ちを整理した。ユキが言っている、感じていることは間違いではない。そして、五反田君を友人と思う気持ちも嘘ではない。それで、「僕」は惑った。僕は五反田君に電話をかけて、あっさりと聞いてみようとした。しかし、手が動かない。
そんな五反田君が、「僕」の家を訪ねてきてしまった。どこか話ができる店を探したが、見つからないので、逆に騒がしい店に行こう、となった。そして「僕」と五反田君はシェーキーズに行った。
五反田君は愚痴を話していた。「僕」はずっとそれを聞いていた。そして、話が途切れ、演奏も途切れた拍子に、「僕」は五反田君に決定的なことを訊ねてみた。
五反田君はうろたえながらも、事態を把握してはいた。しかし、それが自分の意志なのか、それとも別の意志によって動かされていたがわからないようだった。「そういう気がする」。そういうことだった。
無意識にそういうことをしてしまう。昔からそうだったと五反田君はいう。そういう行為をして、精神の平衡がとれるともいった。ただ、確証がない。実感がないという。「忘れよう」と「僕」は言った。しかし五反田君は、僕から話さなければならなかったのに隠していた、それが問題だという。
「僕」は五反田君に、ハワイに行ってダラダラと過ごそう、と提案した。五反田君は、それで忘れられるだろうか、といぶかしんだ。そして、「僕」にビールを取ってきてくれるように頼んだ。「僕」は了承した。そして取ってきた。その間に、五反田君はマセラティごと消えていた。
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どうしたものか、悩ましい。上の子に、私は何といえばよかったのだろう。少なくとも、そうした有徴性を目にし、認知したときに、それを馬鹿にしてはいけないというのは普遍的だし、ことさらに言及するのもはしたないふるまいだと思う。
しかし、「個人の尊厳」を尊重することが重要だ、とするならば、その有徴性を自覚する前の個人に対して、どう接することがふさわしいのだろうか。
もちろん、「自然に」ということは、よく言われることだが、私は「自然に」というアドバイスは、逃げにしか見えない。「なるようになるから、あんまり考えるな」ということであれば、つい「お前それなんだよ」と言ってしまうこともある子どもの自然だし、驚いて沈黙してしまうのもある子どもの自然である。
私は小さいころから肥満児だった。肥満をいじられ続けて、ここまできたといっていい。肥満じゃない時期もあり、肥満じゃない時期にいわゆる「普通のこと」をしてきたので、肥満であったらきっとこれら「普通のこと」は成し得なかっただろうな、と思う。
肥満という有徴性を内面化したとたん、自分はさげすまれて当然の人間であり、劣等な人間なのかもしれないという自覚につながり、それを気にするように生きてきてしまった。一度、そういったひけめを感じると、ひけめを何かで相殺しようとしたり、ひけめの程度を比べたりと、五反田君がいう以上の卑劣さを、自らの中に飼育するようになる。
肥満を気にするな、と言われ、自然でいいじゃん、と言われ続けてきたが、肥満であることはたいていマイナスの評価になってきた。肥満でなくなった時期に、手のひらを返すような態度を目の当たりにして、ああそうか世界はこういうことだったんだな、と寂しく思うと同時に、本音と建て前の区別をどう考えたらいいのかなと悩んだ。
肥満が悪い評価をされているのではなく、肥満を気にすることで振る舞いが卑屈になることが悪い評価につながっているのだ、と言われたけれども、ではそもそも肥満でなかったならば、ひけめを感じることもなかったではないか、と言いたくなる。そして、後天的な有徴性なのだから、それは努力で何とかしなさいと言われる。でも、どうしてそんな努力を人よりもしなくてはならないのか、という問いについては、誰もアドバイスなんかしてくれない。どうにもならない顔をして黙ってしまうだけだ。
要するにそういうことだと思う。ただ、別にそれが悪いことだとは思わない。しょうがない。それであろうと思う。その上で、自分の尊厳がどこにあるのかを考えていくしかない。