世界の原理・マルクス・大げさだったかも ~村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』32~
私たちは、日々何かを作り、それを換金して、得た金銭を用いて、生きながらえている。
これが、マルクスに今さら言われることもない、人間の常態だろう。
作れなければ、作っている人に労働力を提供することで、対価を得る。
ここまでが、端的に事実であろう。
(得た金銭を運用しつつ、金銭で金銭を生み出す活動を、私はファイナンスという概念で理解してきた。でも、ここまで考える必要は、今はない。)
何かが作れて、それを金銭と交換する方途の能力があれば、とりあえず当座の生活には困らない。この能力を身につけるために、学習がある。
単に作れない人。
作れるけどうまく作れない人。
うまく作れるけど、うまく換金できない人。
うまく作れないけど、パッケージがキレイなので、うまく換金できる人。
うまく作れて、うまく換金できる人。
何をつくって、どう換金するのか。その活動の連鎖がどういう生きがいを生み出すのか。
煎じ詰めれば、人生とは、その程度のものなのかもしれない。
作れるものがオールドなものなら、現代社会で大量に売るには支障がある。
作れるものがプログラムをベースにしたアプリやプラットフォームなら、現代社会でも大量に売れることであろう。
もちろん、一人でつくるのが難しければ、仲間を募って、みんなでつくり、それを販売することになる。
小説をつくって、それを売る、というミクロな活動から、企業をスタートアップさせて軌道に乗ったら他社に売る、といったマクロな売買まで、つくることと売ることは、人間活動のシンプルな根幹となっている。
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五反田君が、「僕」の家に来た。そして、「僕」の部屋に入って、一緒に酒を飲んだ。そのつまみを「僕」がつくり、会話を楽しんだ。
会話は徐々にメイの殺害の捜査が、どのように進展しているかという内容におよんだ。「僕」はハワイで、牧村拓が呼んでくれたジューンというコールガールの組織について、五反田君に聞いてみた。そうした国際的な組織もあるということだった。
五反田君は、別れた妻と時々会い、寝てさえいるという。しかし、その妻の家族は妻を五反田君に合わせようとはしない。うまくいっているが、手には入らないことに五反田君は苛立ちを隠さない。
五反田君は、ひとしきり資本主義と俳優の人生についての愚痴を言い、「僕」のスバル車と、五反田君の「マセラティ」を交換して、帰っていった。
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冒頭の認識は、大学のときにマルクスを読んでいて、理解した内容だ。イズムはともかく、経済活動の認識について、マルクスはわかりやすい。下部構造がすべてを決定するとは思わないが、下部構造の認識がないと、上部構造の理解はおぼつかない。
そして、シンプルに、人間のありようがわかる。
動物であれば、自然にあるものを消費し、生殖して、死ぬだけだ。しかし、人間は、何かを作り、それを交換し、富の差異を生み出してきた。
交換活動がみな同じくらいだったら、富だって、別に同じくらいだった。しかし、そうではない。
私たちは、そうではなくなった以後の世界に突如として生み出された存在である。
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壮大で、深刻な話のようだが、案外シンプルな世界の原理が、私は好きだ。これを複雑化、具体化していくと、わけがわからなくなっていくが、経済活動が暴力による収奪になってしまうことをコントロールするために、社会や政治というものが生まれた、くらいに思っておくと、よい。
また、人間は生み出すと同時に、消費しないといけない。物質的にも精神的にも。消費、については、別個の認識になるが、そのようなシンプルな世界の理解を、ときどき思い出さないと、あらゆる日常の細々した動きの中で自分の位置を見失う。